人生は旅

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楠木正成は武略の天才

朝日新聞朝刊に連載されている『人よ、花よ』から。画は北村さゆりさん。

 毎朝、朝日新聞に連載されている今村祥吾さんの小説『人よ、花よ』を楽しみにしている。と言うと、なんだか熱心な読者のようだが、実は相当に気まぐれなので、そのため一応切り抜いてスクラップしている。そうしておけば、一時は飽きたり、つまらなくなったとしても、後からいつでも読み返すことが出来るからだ。この小説の主人公は智謀の天才と世にその名を轟かせた楠木正成の長男で、多聞丸という21歳の若者だ。

 恥ずかしい話だが、私は歴史に疎いので、楠木正成の名前は聞いたことはあるが、その正体はよく知らない。そんなときタイミングよくNHKの「知恵泉」という番組で楠木正成を特集していた。それによると、正成のモットーは”地位や組織にこだわるな、個と付き合え”だった。その戦い方は常識に囚われず、独創的だった。例えば、大軍に対して、石を投げ、大木を落とし、熱湯をかける、というような常識破りの戦法を用い、敵軍を圧倒した。その戦い方の裏にはある集団の力があったのだ。

 楠木正成が最初に歴史の表舞台に登場したのは鎌倉幕府討伐を掲げて挙兵したときだった。北条高時が遊楽に耽るばかりで、政治を顧みようとしなかったせいで、多くの民が苦しい生活を強いられていた。世を正し、より良い政治を行おうと後醍醐天皇は討幕を決意し、共に戦う兵を求めていた。正成はその呼びかけに応じ、幕府を倒すには武略と智謀の二つが必要と考えていた。だからこそ、敵の大軍5万に対して味方が僅か5百人でも何とか勝利を収めることが出来たのだ。その見事な手腕によって楠木正成の名声は全国に広まっていく。今村さんの小説「人よ、花よ」でも書かれているが、まともに戦ったら勝ち目がない相手にはゲリラ戦法で立ち向かった。相手の不意を突くことはもちろん、相手を錯乱させ、惑わせて、相手が何が何だか分からなくなっている時に考える隙を与えず、一気に倒すやり方だった。

 ある時、正成は2千の兵と共に四天王寺に籠城した。それを知った幕府は関東一の武士と言われた宇都宮金綱の軍勢を向かわせた。しかし、金綱が到着した時には四天王寺はもぬけの殻だった。戦わずして勝ったと喜ぶ金綱だったが、4日後の夜に信じられない光景を目にする。なんと周りの山々に無数のかがり火が燃え盛っていたのだ。正成の大軍に囲まれたと焦った金綱は慌てて退散した。しかし、この大軍は正成が作り出した幻だった。地域の野伏らを5千人ほど集めて実際よりも多く兵がいるように見せかけた。

 正成の快進撃に慌てた幕府は大軍を向かわせた。太平記によると、その数八十万騎で、対する正成は地元の千早城で迎え撃つことになった。ゲリラ戦法に苦杯をなめた幕府軍は今回は兵糧攻めに出た。ところが、正成軍はビクともしない。と言うのも正成は地域の野伏と密接なネットワークを築いて、食糧を容易に入手できるルートを確保していたからだ。この時、城内には大量の飲み水が運び込まれていた。その事実に仰天せざるを得ないが、これを可能にしたのは野伏の存在が大きい。野伏しか知らない湧き水の情報を入手していたからだ。

 時が満ちるのを待っていた正成軍は反撃に出る。幕府軍の補給部隊を襲わせて、兵糧を絶とうとする。まさかの展開に焦った幕府軍千早城に攻め込むが、またもやゲリラ戦法に苦杯を飲んだ。正成らが善戦を続けることで、次第に情勢が変わり始める。鎌倉幕府に見切りをつけ、後醍醐天皇に味方をする武士が現れたのだ。そして、結果的には楠木正成の巧みな軍略が鎌倉幕府を亡ぼし、後醍醐天皇を勝利に導いた。

 今村さんの小説「人よ、花よ」は多聞丸が母と共に亡き父を回想する場面から始まる。父である正成が亡くなったのは彼が僅か8歳の時にも関わらず、彼は父から聞いた話を一字一句記憶していた。多聞丸は楠木家の当主であり、幕府から地頭に任じられてもいるが、素顔の彼は21歳の若者だ。今一つ解せないのは、周りから、特に親族から彼が煙たがられているという事実だ。彼らが彼を見るたびにしかめっ面をするのはなぜなのか、今の時点では謎に包まれている。その点において、今後彼がどう行動するのか、展開が楽しみである。