
美味しいものはすぐ飽きる
稲垣さんの本をむさぼり読むようになったのは、朝日新聞の書評がきっかけだった。たしか、梅川由紀さんの『ごみと暮しの社会学』という本だったのに、私が惹きつけられたのは、稲垣さんの「私はおそらく日本有数のごみを出さない人だ」というフレーズだった。これだけで私にはもう十分衝撃で、あれ、稲垣さんは電気を節約して暮している人ではなかったかと首を傾げた。それなのに、ゴミも出さない人だったとは、いやはや、初耳だった。というより、寝耳に水だった。そうなると、もう私の好奇心は止められず、図書館サイトで著書名検索し、最初に2冊、さらに味を占めた私は追加で3冊もの稲垣さんの著書を借りた。
連日、稲垣さんの暮らしの謎を探ろうと夢中になって読んでいたら、『もうレシピ本はいらない』の中での、ある見解に椅子から転げ落ちるような衝撃を受けた。それは、毎日の食事はそう美味しくなくていい、質素なものでいい、という魔法の言葉だった。最初は、ええ!?稲垣さんは何を言っているのだろう、毎日の食事こそ美味しくなければいけないのに、そこのところを追及しているからこそ皆献立に悶々としているのに、と反論したくなった。だが、読み進めてみると、昔の人は、というか江戸時代の暮しを見つめてみると、毎日の食卓は一汁一菜であとは漬物くらいの質素な食卓が普通だったのだ。毎日美味しい物を食べたい、それも材料費ができるだけ安い物をと欲張り続けている私などは、毎日の献立を考えるのが正直言って辛い。
それなのに、稲垣さんは美味しいものはいつかは飽きが来ると断言し、それだからこそ質素なものの美味しさに気づけるのだと言う。気の遠くなるくらい毎日の献立においしさを追求していた身としては、まさに目から鱗だった。稲垣さんの魔法の言葉を聞いて、私は一瞬掬救われた思いがした。毎日の食事作りにそう力を入れなくてもいい、頑張らなくていいと思えて来た。食事をハレとケに分けて考えて、普段は質素でいいと思えるようになったことで、長年の悩みから開放されたのだ。
それに、私は今、毎日食べるものが決まっている。大根と牛肉とがんもの煮物、とナス焼きがいつものおかずで、普段から作り置きしている。一度作ると、だいたい4日間はもつので、楽なことこの上ない。味付けは濃い目にすると飽きるので、薄味に抑えているせいか、今のところ毎日美味しく食べられている。それでもたまに別の物を食べたくなり、ついつい手を出すと、案の定、口に合わなくて却下となる。要するに、今食べているものが自分の嗜好にあっていて、自分が美味しいと思えるものなのだ。いやそうではなく、もう自分の舌がそれに慣れて、飽きがこない味に仕上がっていると言った方が正しい。
稲垣さんが実践している一汁一菜の食事は私には到底真似ができないが、毎日の食事はたいしてご馳走を作らなくていいと言う主張には大いに賛同する。だいたいが、世の奥様方を苦しめているのは、毎日「美味しい食事」を作らなければならないと言うミッションだからだ。毎日の食事に美味しさなど追及してはならない、大事なのは何と言っても飽きの来ない味に尽きるのではないだろうか。稲垣さんの本を読んだら、そう思えて来た。稲垣さんは毎日食べる玄米ご飯と、具だくさんの味噌汁、それにぬか漬けが最高に美味しいと断言している。つまり、質素なもので幸せを感じられるのだから、たとえ、お金がなくなったとしても怖い物は何もない。人の欲は底なしで、皆、「もっと、もっと」とさらなる理想を追い求める。そんな生き方がアグレッシブでいいともてはやされる世の中にあって、最小のものでいいときっぱり言い切れる稲垣さんの生き方は素晴らしい。
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