人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

お弁当の香り

お弁当に香りなんて、あったっけ?

 先日の朝日新聞の投稿コーナーの「ひととき」の記事には驚かされた。なんと、お弁当の香りを毎日待ちわびていると言うのだ。お弁当を開けたときのあの瞬間が堪らないと言う。でも、ちょっと待って、お弁当に香りなんてあったっけ?いや、確かにお弁当の匂いはあるにはあるが、感じないだけだった。この投稿は東京都立川市の高校生の河本春奈さんのもので、春奈さんは毎日、お弁当の時間は幸せに包まれている。そんなことで、たったそれだけのことで、容易に幸せが手にはいるものなのかと、感動するだなんて心はとっくに失くしてしまった私は正直に思う。だが、すれっからしの感性しか持ち合わせていない私が言うのも何だが、何でもないことで幸せを感じることができるのは、ある意味特技と言えるのではないだろうか。

 「お弁当を開けると、香りが一直線になって見えるかのような速さで飛び出して、私の食欲をあおる」という記述には、「へえ、そんなことが・・・」と首を傾げたが、すぐに凄いと感心した。そんな想像もつかないことを感じられる才能に脱帽するしかない。だいたいが毎日のお弁当なんて、作る方も、食べる方も、惰性の法則で、無感動で無意識に済ませているものだ。何せ、毎日のことだから、ワンパターンで、食べる方は「またこれか、いくら好きでもこう毎日じゃねえ」と内心思ってはいるが口にはしない。作る方にしたって、とっくに自分の作るおかずに嫌気がさしてはいるが、「親なのだから作らなきゃ」」みたいな義務感に苛まれ、誰も認めてくれないので自ら自分を激励して頑張っているのだ。そこには子供に対する愛情も、弁当を作ってくれる親に対する感謝も、残念ながら靄が掛かって見えない。要するに、親は作って当たり前、子供は不満があっても仕方がないので食べるのが当然のことなのだ。

 昔、親しい友達二人と話していたら、そのうちのひとりが幼稚園に通う子供のお弁当についてこんなことを言っていた。「今朝、子どものお弁当を作るとき、おかずが何もないので困っちゃったの。仕方がないので、冷蔵庫にあった蒲鉾とりんごを入れて、お弁当箱の隙間を埋めたわ」。こともなげに、当然とばかりに彼女は笑って言ってのけた。このとんでもない発言に私は言葉を失ったが、もうひとりの友人が「アハハ」と笑って同意したのには二度驚かされた。お弁当は子供への愛情の表現ではなかったのか、と聞き返したい気持ちをグッと抑えた。その時わかった、毎日作っていれば、愛情も惰性に変わり、義務感しか残らないのだと。ましてや、お弁当箱を開くときの子供の気持ちなど想像する余地などないのだろう。

 私にしても、お弁当を作ってくれる相手に感謝したことなど一度もなかった。中学生の時は父親が弁当を作ってくれた。母親が中学に入る前に病気で亡くなったので、うちは缶詰ばかりを食べていた時期があった。料理など一切したことがない父親の作る弁当はワンパターンで卵焼きはいつも黒く焦げていた。正直、当時はまともに弁当箱を開けて食べることはできなかった。恥ずかしくて。それでも、私は気を使って、親に文句はは言えなかった。感謝はしなくても、親に対する気遣いだけは心得ていたらしい。

 高校生になると、ミチコさんが兄のお嫁さんに来てくれて、私はミチコさんの作るお弁当を食べた。こちらは、何処に出しても恥ずかしくないお弁当だった。お弁当の時間は堂々と皆の前に広げ、美味しいお弁当を堪能した。仲良しになった友達と一緒にお弁当を食べていたが、ある時、その子が「それって、義姉さんが作ってくれるの?」と私の食べている弁当を指さした。すぐには、何を言いたいのかわからなかったが、「うん、そうだけど・・・」と答えたら、「いいねえ」」と羨ましそうに言う。その時初めて知ったのだが、なんと彼女はお弁当を自ら作っていたのだった。聞くところによると、彼女のうちは母親が脳腫瘍で亡くなった後、父親が再婚して、義理の妹も生まれていた。

 幸い祖母が居てくれるので、寂しい思いはしなくていいが、義母と折り合いが悪いらしい。普通なら義母が作ってくれてもいいのだが、そうはいかないらしい。人のお弁当のおかずになど興味はなかったので、彼女のお弁当をまじまじと見たことがないからわからない。だが、今でも「卵、一個でおかずを作る」と言っていたことがずうっと気になっている。なぜなら、彼女の家は父親が不動産屋を経営していて、うちなんかよりもずうっとお金持ちだったから。どうやら、お金持ちというのは普段食べる物は質素にしているものらしい。その一方で、使う時はド~ンと使うのだ。

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