人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

老婦人の死に想う

知人の突然の死、悲しいが、複雑な思いも

 先日、近所に住んでいる老婦人が亡くなったことを人づてに聞いた。夜中に救急車で運ばれたまま、帰らぬ人になったらしい。その人は年金生活者で夫と一緒に仲良く暮していた。隣の家の人の話では、亡くなったことが分かったのは携帯電話での話声を聞いたからだった。とりわけ声が大きい夫が、電話がかかってくるたびに、「うちの母ちゃんが死んじゃったから、どこに何があるのかさっぱりわからなく困ってるんだよ」と嘆いている。普通は電話の声など、生活音に紛れて、かき消されてしまうものだ。だが、じっと聞き耳を立てているわけでもないのに、自然と聞かされてしまうのだ。古い家が密集している住宅地だから仕方がないのかもしれないが、それにしても騒音?がなければ、人が亡くなったことすら気づかない。近所の人にも知られずに、ひっそりと人は死んでいくものらしい。

 亡くなった老婦人とは以前は道で偶然会うことが多かった。スーパーでの帰り道に荷物がいっぱい詰まったカートに加え、片方の手にはレジ袋まで下げていた。歩くのも大変そうな姿を見かけると、気の毒になって、荷物を持ってあげたりした。おばさん、私はその人のことをそう呼んでいた。一緒に歩きながらたわいもない世間話をよくしたが、時々は自分の事も話してくれた。自分には子供がいないこと、若い頃からずうっと仕事をしてきて、今は年金生活だがとても満足していることなどを。特に年金生活については、「働かないで今のような安穏とした生活ができるなんて、なんだか申し訳ない気持ちになることがあるの」だなんて、意外な発言をすることもあった。そんな気持ちを友人に打ち明けたら、「今まで一生懸命働いてきたのだから、当然の権利だと思っていいのよ。つまり、これまで頑張ってきたことに対してのご褒美なのだから」と励まされた。そうか、そう言われてみれば、なんだかしっくりとしてきた。とても納得がいく説明なので、少なくとも働かなくてもお金が自然と貰えることには後ろめたさを感じる必要がないことが分かった。気持ちが軽くなって、それまで以上に幸せを感じるようになった。

 だが、ある日突然、優しい夫が人が変わったように煩くなり、些細なことにも騒ぎ立てるようになった。ベランダに洗濯物を干すという日常のことにもこだわるようになり、「このバカ、そんなやり方じゃダメなんだよ。お前のやり方はひどすぎるよ。ちゃんとやれよ、このバカ者!」そんなことを毎日のように言うものだから、まるで”放送局”のように近所中に夫婦のやり取りが実況中継された。周りの人たちも聞いているだけで不快になるが、あんな暴言を吐かれてもおばさんは一切反論しなかった。何を言われてもただ、ウフフッと笑っているだけだった。それが果たしてよかったのか悪かったのかは分からないが、とにかく言われっぱなしだった。

「あれがあの夫婦にとっての”普通”で日常なのかと思っていたけど、違うの?」

ご近所さんのひとりに聞かれて、「違いますよ。おばさんは怒りを笑いで誤魔化していたんですよ」と即答した。おばさんはどちらというと、怒りを表に出さずに溜め込むタイプだ。爆発させることが嫌でたまらなくて、自分の中で処理して何もなかったかのようにしたいのだ。それに暴言を吐く相手にまともに向き合ったら、家の中が戦場になってしまうのではないかと恐れていた。

 「あの人(おばさんの夫のこと)は出先で突然倒れて以来、変わってしまったの」

ある日突然救急車で運ばれた病院で検査をしたら病気が見つかって、夫はイライラするのだろう、同居人であるおばさんに当たるようになったのだ。でも最初の頃は怒りよりも夫に対する同情の方が強かったと思う。その頃からおばさんとはだんだんと疎遠になっていった。こちらから顔を合わせるのを避けるようになった。こんなことを言うのは不謹慎かもしれないが、おばさんはこれでやっと夫から解放されたのだ。

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