人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

手作りしなきゃ

お弁当は母親の愛情表現のひとつですか?

 手作りというと、どうしても私の頭の中に浮かんでくるのはお弁当のことだ。幼稚園から高校に至るまでお世話にならずにはいられない不可欠なものと言えるだろう。お弁当の作り手は主に母親で、毎日毎日愛情込めて?いや、惰性でというか、仕方なく作っている場合もあるだろうが、世間的にはあれは母親の子供に対する愛情表現のひとつであると言われている。母親なら子供の弁当くらい作って当たり前で、別に褒められた話ではないと言うのがステレオタイプな意見だ。以前テレビ番組で、是枝監督の映画『誰も知らない』に出ていたYOUさんが言っていたことがとても印象的だった。「どんなに遅くまで飲んでも、朝はちゃんと起きて息子の弁当を作ることにしている」と誇らしげに話していた。YOUさんにとっては息子さんの弁当を作ることは、まるで母親であることの証明のようなものだと言いたいのだと私は受け取った。そんなYOUさんの発言に対して、視聴者からは、「芸能人だから、特別だとでも言いたいの?別に自慢することでもないでしょ」という厳しい意見もあった。

 お弁当に関して、私が一番驚いたのは、以前同僚の女性が昼休みに話してくれた出来事だった。彼女には高校生の娘がいて、毎朝弁当を作っているのだが、その日は何らかのアクシデントがあったようだ。「今朝はコンビニにお弁当を買いに走ったわよ」と言うと、事の顛末を話し始めた。なぜコンビニに弁当を買いに行かなければならないのか、最初は私も他の同僚も訳が分からなかった。そうなった原因が何だったか忘れてしまったが、寝坊したとか、ご飯の炊飯予約をし忘れて朝炊けていなかったとかそんなことだったと思うが、弁当が作れなくて”万事休す”の状況だったことは確かだった。

 それで、彼女がどうしたかと言うと、コンビニ弁当を買ってきて、いつもの娘の弁当箱に詰め直したと言うのだ。そんなことを聞くのは初めての私は仰天した。いったい何のためにそんなバカげたことをするのか。まあ、そうするのには何らかの事情と理由があるのだと想像はできるが、そうまでして体裁を取り繕う必要があるのだろうか。これほどまでに、たかが弁当ごときのために翻弄されていいものだろうかと内心思った。呆然としている私のことなど気にならないのか、彼女は「こんなことは皆やっているわよ。私だけじゃないわ。全部じゃなくても、おかずだけ詰め替える人もいるのだから」と平然と言ってのけた。

 だいたいが、弁当が作れないのなら、「今日はパンを買って」とお金を渡せばいいだけのことだ。だが、そうも行かない事情が、そんな簡単なことを許さないほどの同調圧力というものがあるらしい。弁当が当たり前で、一番ベストなものという”弁当神話”は実に厄介で悩ましい。そう言えば、私が高校生の時に転校してきた女の子は母親が中国人だった。彼女はいつもお昼に菓子パンを2個食べていた。それはクリームパン1個とアンパン1個だったり、時にはジャムパンだったりした。不思議に思って「お母さんは働いていて、忙しいからお弁当が作れないの?」と聞いてみたことがある。すると、彼女は「お母さんは働いてはいないけど、朝が弱くて起きられないから、弁当が作れないの」と当然のように答えたのだ。私が衝撃を受けたのは、彼女が自分の母親に対してべつに不満を抱いているわけでもないということだった。周りの日本人は皆弁当を食べていても、それが羨ましいとかという気持ちは全然ないようだった。お母さんのせいでひとりだけパンを食べていて可哀そうだとか、皆内心思っていて、私も当然のごとくそう思っていたが、当の本人はまったく気にしていなかった。

 朝弱いから弁当を作れないだなんて、怠慢だとかなってないとか言われそうだが、できないものはできないのだから仕方がない。それに弁当というものは絶対作らなくてはいけないものでもないらしい。ここ何年間か中国語を勉強していると、中国の文化を知る機会も増えて来た。NHKのまいにち中国語テキストで通訳と翻訳を仕事にしている多田麻美さんがエッセイの中でこう書いていた、「中国には弁当を作る文化はありません」と。

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充実させなきゃの呪縛

なぜ毎日を充実させなければならないのか

 私は今までずうっと、「毎日充実した生活を送ってさえいれば、きっとその人の人生は充実したものになる」と信じていた。つまり「充実した毎日が充実した人生を作る」のだと信じて疑わなかった。私の考えでは「充実する」というのは行動に意味を持たせることで、となるとそれに集中して取り組むことだった。そうすれば、やったらやったなりに何かが得られると考えていた。その副産物を”やりがい”とも呼べるかもしれない。でも現実の生活において、すべての行動に意味があるのかと言うと、そうでもないことは明かだ。意味がなくてもやらなければならないことは山ほどある。それらは一般的に雑用と呼ばれるものだ。

 雑用とはたいして面白くもないが、かと言ってそれをしないと生活に支障が出る行動のことだ。買い物とか掃除とかといった、誰かが必ずしなければならない必須の仕事をさすのだと思っていた。それまで特に気にしなかったのに、「雑用」という言葉を改めて考えさせられたのは新聞で見たある新刊本の広告だった。そこには『あなたの人生は雑用の連続ではありませんか』という問いかけがあった。さらに『あなたはまだ本当にしたいことをやっていないのではないですか』と続き、『あなたはこのままで人生を終えて後悔しないのですか』と畳みかけていたのだ。要するに、死ぬときに後悔しないように生き直そうという啓発本だった。ここで使われている「雑用」は私が考えていたよりもはるかに深い意味あいを持っていた。

 考えてみると、私に限っていえば、ほぼ人生の半分は”雑用”に使っているのかもしれない。でも世間で言われるのは「充実した生活を送ろう」で、となると誰にでも平等に与えられている一日24時間をできるだけ効率的に使おう思うのは当然のことだ。だが、やたら効率を重視しすぎると、上手く行かないときはひどく落ち込み、苦しくなる。正直言って、楽しくないし、こんなことに意味があるのかと疑いたくもなる。こうなると本末転倒で、充実させようとしているのに、逆に自分を追い込んでしまうのだ。なので、無理して「充実させよう」だなんて、大それたことを、自分には不可能なことを目標に掲げなくてもいいのではないかと思うようになった。私には「充実させる」素質はハナから無いのだとわかって、きっぱり諦めた。

 そんなとき、日経新聞の人生相談で「私の日々の生活は充実していないと感じています。どうすれば充実した生活を送れるのかアドバイスを頂けませんか」という投稿があった。そのなんとも悩ましい質問に答えるのはお笑い芸人の山田ルイ53世さんだった。その質問に山田さんは「別に毎日を充実させる必要は全くありません」と一刀両断。これには面食らった。目から鱗だった。山田さんはこれまで「充実した生活」というものを考えることなく、というよりその余裕もなく過ごしてきたと言うのが本音だった。だが、本当のところは几帳面な性格で、効率を考えられるほどの心の隙間もなく、またその必要性を感じなかっただけなのだ。

 要するに、山田さんは、世間の「もっともっと」という風潮に同調しなくても大丈夫だからと言いたのだ。自分がまあまあこれくらいでいいかあと思える程度の生活を普通にすればいいのですよということらしい。毎回拝読していて、いつも山田さんの回答はユニークでこんな考え方も有るのかと感心するのだが、今回は特に仰天した。それで、別に「充実した生活」を意識する必要もなく、自分が好きなようにすればいいのだと気付かされたのだ。私はできないので諦めたわけだが、山田さんはきっぱりと「そんな気もない」と言えるところが実に素晴らしい。

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早起きしなきゃ

"早起きは三文の徳"は正しい?

 私は毎朝5時15分に起きて、早朝散歩に出かける。そもそも私がこんなに早起きになったのはどうしてなのかと考えてみると、コロナが流行したせいだった。元々散歩の習慣はあったが、仕事に行く前の7時頃に歩いていた。だが、コロナが流行し始めると、周りの様子が次第に変わってきた。ちょうど折も折、桜の花が咲き始めた頃で皆が外へ外へと出て来たのだ。夫婦やカップル、家族揃って、皆談笑しながら散歩を楽しんでいた。特に花見スポットというわけでもないのに、近所のあちこちで桜の花が満開だったせいだ。花見の季節には大勢の人が出るのは当然だが、あんな早い時間に人混みができるなんてありえない。信じられない光景に驚き、あんな状況では感染してもおかしくないと不安になった私は、散歩の時間を早めることにした。

 それで、「早起きしなきゃ」となったわけだが、1時間早く起きることは最初は苦痛だった。でも3日坊主にならなかったのは、周りにはほとんど誰もいないし、時々ランニングしている人に出会う程度で、爽快な気分になれたからだ。昔から、”早起きは三文の徳”という言葉があるが、早起きすると何かいいことがあると言うのはこのことを言うのかもしれないと気が付いた。始めた頃は春だったから、まだ明るかったが、そのうち冬になると、まだ夜明け前の漆黒の世界に出会った。昼間とは一線を画した幻想的な雰囲気を感じたとき、別世界に居る様な気がして嬉しくなった。夜でもない朝でもない、中間地点の曖昧な時間に自分が身を置いていると感じたら、なんだかお得な気分になった。

 早朝でしか味わえない不思議な感覚に味を占めた私は、それ以来3年もの間、当たり前のように早起きを続けてきた。今となってはもはや身体が動きを覚えてしまって、勝手に動く。毎朝ICレコーダーからNHK第一のニュースが聞こえると自然と目が覚める。その時もう少し寝ていたいと思っても、まだ眠いのになあと一瞬思っても、そんな戯言は一切無視して、身体はすぐに起き上がる。なんと3年の間にこんなにも立派に習慣が身についてしまうとは、怠け者の私にしては上出来だ。想像できないほどに真面目で、我ながらあきれるばかりだ。でもなぜそうなったかはちゃんとわかっている。

 要するに、早起きして、早朝散歩に行って、一日を始めるのを”生きがい”にしてきたからに過ぎない。それらのことは私に毎日の生活のリズムを作ってくれた。いったん自分で決めたことを一つ一つきちんとこなすことだけが、その時の自分にできることだと信じていた。目の前にあることをこなすことで、心の平安をかろうじて維持していた。何の目標もなく、希望もない霧の中ではそれが自分ができる精一杯のことだった。おかげで一度ならず、何度もどうかなってしまいそうになったにもかかわらず、今まで狂うこともなく生きてこられた。

 早起きは精神的に病んだ人を立ち直らせるプログラムに取り入れられるほど、有効な手段だと聞いたことがある。朝の光を浴びるだけで、人は希望を取り戻せるのだとも聞く。一方、最近の研究では、無理して早起きする必要など全くないとも言われている。その真偽のほどは分からないが、最近私の心の中に変化があった。3年間目標というものを持たなかったのに、突然「海外旅行に行く」という大それた?希望が湧いてきたのだ。となると、どうしても”黄金の時間”でもある夜に至福の時間を過ごしたいと思うようになった。ところが、朝早いと当然夜はすぐ眠くなるのが人の常だ。朝と夜の両方のいいとこ取りはかなわないので、そうなると、今まで考えもしなかった悩みが生まれる。

 眠いのにそれに逆らって、それでも何かをやろうとするのは時間の無駄なのは確かだ。『思考の整理学』の外山滋比古先生もその著書に書いておられた。眠いのにグダグダして無駄な抵抗をしているぐらいなら、さっさと寝てしまってその分早起きした方が千倍得するのだと。いずれにせよ、何か起こらない限り、当分今のままの生活を続けていきそうな予感がする。

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毎日入浴し、毎日洗濯をする

毎日しない人もいるのだとわかった

 私は毎日入浴し、毎日洗濯をしている。それを当たり前だと思い、それが習慣になって、しないとなんだか気持ちが悪い。特に”しなきゃ”に囚われていたわけでもなく、ただ単にそうしたほうが気分がいいからしているだけのことだ。洗濯に関しては、昔こんな言葉を聞いたことがあった。”借金と洗濯物は溜めるな”という戒めの言葉だ。要するに、借金も洗濯物もほんの少しだからと油断していると、大きく膨れ上がりそれを処理するのににっちもさっちもいかなくなると言いたいのだ。だから少ない量でも見過ごすことなく、あるいはこまめにやってしまうの方が身のためなのだ。

 借金の方はともかく、洗濯物に関しては昔一度溜めてしまって、えらい目に会ったことがある。半日も洗濯機の御守りをしなければならず、干しても干しても衣類は無くならず、また濡れた洗濯物を干すのに時間がかかった。洗濯物がやたら多いのに往生し、面倒臭くなって嫌になった。籠一杯の洗濯物を一度に一気にやってしまおうとすると、想像以上にエネルギーを必要とするのだと気が付いた。なので、こまめに少しずつ、いやそれが少量でなくても、毎日やるのが肉体的にも精神的にも落ち着くと考えていた。

 それに今はもう違うが、以前は当時流行っていたミニマリストに憧れて、自分でも実践しようとしていた。そうなると手持ちの服が当然少ないのに、夏などは着替えの回数が多くなり、洗濯しないと着るものが無くなる。こういったことは洗濯物が乾かない梅雨時期にも言えることで、自然と「洗わなきゃ」となって身体が動く。現在は着替えには余裕はあるものの、目の前にある洗濯物を見ると見過ごせない。洗濯物の山が気になり、なんとかしないと落ち着かないのだ。そんなある日、実家に電話を掛けたら、義姉のミチコさんが「私は洗濯は毎日しないの。洗濯機に洗濯物が溜ったらするようにしている」というので耳を疑った。

 だが、考えてみるとミチコさんはひとり暮らしなのだから、そう洗濯物も溜まらないはずだ。それに下着の上に着る服を毎日取り換えなければ洗濯物はそんなには出ない。それから、ミチコさんは入浴の時皆が使うべきだと思っているバスタオルを使わない。フェイスタオルですべて済ませているから、私とは”洗濯物のかさ”において天文学的に違っている。浴室から出る時、風呂のタオルを固くしぼって身体を拭くようにしているので、その後脱衣所ではフェイスタオルで十分なのだ。「浴室ではバスタオルを使わななきゃ」はどうやら思い込みだったようだ。洗濯物を減量することによって、洗濯の回数を減らしているので、当然のごとく水道料金の節約にもなっている。

 さらに「最近は風呂には毎日は入らない。一日おきにしているの」と言うので大いに戸惑った。以前は日に何度も入っていて、お風呂が何でそんなに好きかなあと呆れていたからだ。なぜ入らないのかの理由は聞きそびれたが、先日も近所の知人と井戸端会議をしていたら、その人も似たようなことを言っていた。人が好きでしていることだから、なぜ?とあからさまに追及するわけにもいかず、それにどうでもいいことだからと聞き流した。その人は「今日は天気が悪いから洗濯しなかった」とも言っていたが、私にしてみれば、雨だろうが、雪だろうが、天気に関係なくするべきことだ。毎日”しなきゃ”ならない必須事項なのだ。

 考えてみると、若い頃は風呂に入るのが面倒臭かったこともあるが、今はとても気持ちがいい。シャワーではなく湯船に浸かることで、一日の疲れがふわっとしている間に溶けて流れていくような気がする。実際に海外旅行で、未知の土地を歩き回り心身共に疲れたときは、暑いシャワーを浴びたら生きかえったような気がした。”入浴は疲れを癒してくれる”のだと経験から学んだ。義姉のミチコさんや近所の知人の真似をする気はないが、いずれにせよ、毎日入浴し、毎日洗濯するのは”しなきゃ”に相当する事項でもないのだとわかった。

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エキストラ

目立ってはいけない、でも本音は目立ちたい?

 ある日の新聞のテレビ欄に、『ちょっと気になるけど、どうなってるの?』的な質問のコーナーがあって、それはCMに関することだった。確か女優の仲間由紀恵さんが通勤電車の車内で大勢の人に囲まれながら風邪薬の宣伝をしている。その光景があまりにもリアルなので、これはもしかして本当の車内で撮ったのですか、との視聴者の指摘だった。だが本当のところは車内の乗客はすべてエキストラの人たちだった、という落ちが付いた。あのような車内のリアルな雰囲気を出せたのはエキストラの人たちの演技力があってこそなのだと言いたいのだ。これには正直驚いた、そもそもエキストラの人たちに”演技力”などというものが必要なのだろうか。私の中ではエキストラの人たちはその他大勢の人たちで、助監督などの上の人たちに言われるままに動けばいいという常識が出来上がっていた。

 折も折、TBSラジオの宮藤官九郎さんの番組でエキストラのAさんとBさんの二人がゲストに来てくれた。二人共40代の男性で、エキストラ歴は6,7年の人たちだ。そもそも二人はどうして、エキストラになろうと思ったのだろうか。Aさんは若い頃から俳優という職業に興味があって、なろうとしたが叶わなかった。でもその夢が忘れられなかったようで、雑誌やネットで「エキストラ募集」という広告を見たら、夢をもう一度とばかりに応募してしまったと言う。この人は以前ゴミ処理業者の愚痴の時でも出演していたと知って、ああそう言えばそんなことが・・・と気づかされた。

 もうひとりのBさんの理由が意外で実に面白い。そんなふうに考える人も居るのかと目から鱗だ。Bさんは映画やドラマのDVDを買い集めるのが趣味だった。それで、どうせ買うなら自分が少しでも写っている作品を買った方が、記念にもなるし、やりがい?もあると考えたのである。もちろんエキストラなので、ほんの少し、いや一瞬かもしれないが、自分が映っている、いや作品に参加していると思うだけで心がときめくのである。Bさんは普段は普通の会社員で、エキストラはアルバイトで自分で好きでやっていることだ。なので当然自分の時間があるとき、あるいは土日にやっているのかと思ったら、この予想は大間違いだった。

 驚くべきことに、Bさんはなんとエキストラの仕事の時はわざわざ有給を取っているのだった。なぜそうなるかと言うと、エキストラの仕事の連絡が入るのはいつも前日だから予定がたてられないし、時間の余裕はないので突発的に有給届を出さなければならないのだ。どう考えてみても、そうやっていつもいつも休みを貰うのはなんだか会社に居づらくなってしまうのではないか。それは想像するとけっこう大変なことだと思うのだが、Bさんはそうやって仕事とエキストラのアルバイトを両立させているのだ。ある意味凄いことだ。

 それからエキストラと一口に言っても、その仕事の内容を聞いてみると、そんなことまでするのかと仰天する。例えば、現場に行ったら、突然呼びだされて、短いセリフが書いてある紙を渡されて、覚えるように言われたり、あるいは、結婚式の司会者の役をやらされたこともあるそうだ。私生活でもやったことがないことをいきなり要求されて、一瞬自分にはとてもできないと思った。だが、それでも面白そうだからやってみたら、自分で言うのも何だが卒なくできてしまった。そうなると、エキストラは原則目立ってはいけない仕事なのだが、自然と目立ちたくなってしまうそうだ。だいたいがエキストラにどう考えても目立つ司会者の役を振るのはどういうことなのだろうか。

 たまに目立とうと意図して動くと、「その動きは目立つからダメ」と言われてしまうが、本当のところは目立ちたい。要するに、静かに”自分はここに居るよ”とアピールしたいのだ。AさんもBさんも共に、出演しているのは聞いたことのあるドラマや映画ばかりだ。普段目にすることが多いテレビのCMにも出ているそうで、となるとこれからは主役の人だけでなく、その後ろに居る人たちにも注目したくなる。エキストラというのは、目立ってはいけないけれど、本当のところは目立ちたい人たちなのだとわかったから。

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アイチーイーのVIP会員になる

案ずるより産むがやすし?

 カードを待っていることにしびれを切らした私は、ふとあることを思いついた。頭の中に「ひとつやってみたらどうなるだろうか」的な考えが浮かんだ。今月で期限が切れるクレジットカードで果たしてアイチーイーのVIP会員になれるものなのか、を試してみることにしたのだ。サイトの「VIPになる」の表示をクリックすると個人設定の画面になった。まず、月880円で視聴できるスタンダード会員を選び、カード番号を入力する。年払い8800円のコースの方が月に換算するとお得だが、途中でやめたくなった時に残金が帰って来るかどうかの詳しい説明は一切ないので、やめておくことにする。ただ、『いつでもやめられます』との表示はあるにはあるが、それだけではあまりにも不十分だ。次に3/23と有効期限を入力した。すると、右上にある人型のアイコンに「VIP」のVの文字が付いて、USERナンバーの隣に「4月1日で有効期限が切れます」と表示された。

 今月で切れるカードでもVIPの会員登録はできるのだとわかった。要するにこの先私が何もしなければ、アカウントが失効して、動画の視聴ができなくなるだけのことだ。よく見ると親切にもスタンダード会員という項目の右端には『VIPを更新』との文字が表示されている。つまり4月1日以降も動画視聴を続けたければ、新しいカードを登録すればいいと言いたいのだ。もちろん、私も今はそのつもりだが、肝心のカードが届かないから、右往左往して、あれやこれやと気を揉んでいるだけのことだ。しかし、正直言って、あんなに心配した割には嘘のようにすんなりとVIP登録ができてしまったので拍子抜けした。これってまさに”案ずるより産むがやすし”ということなのだろうか。しかも更新カードの登録も簡単に出来そうだし、やめたいときは個人設定の項目にある『アカウントを削除する』をクリックすればいいだけのことだ。何のことはない、中国の動画サービスということで、必要以上に警戒してしまったが、今となっては嘘のように不安が払拭された気がする。

 悩みの種はカードが一向に届かないことで、それと言うのも前回更新カードが届いたのは有効期限が切れる一カ月前だった。もちろんその時はカードのことなど頭になく、郵便局の人に手渡されて、有効期限がもうすぐ切れることを気づかされただけのことだった。それに、古いカードにハサミを入れる時に「このカードはまだ使えるのになあ」と内心では思った記憶がある。あれは確か4~5年前のことで、2023年なんて、まだまだずうっと先のことだとばかり思っていた。念のためにカード会社のサイトでいつ頃届くのか調べようとするが、詳しい情報は得られなくて、コールセンターの電話番号が表示されているだけだ。なので、どのくらいのタイミングで問い合わせたらいいのか見当がつかないし、さぞかし電話は混みあっているのではないかとも想像できる。

 それで諦めきれずにまたもやネットで検索してみる。「カードが届くのはいつ頃ですか」と打ち込むと別のカード会社のサイトで有益な情報が得られた。例えばオリコカードでは「有効期限の前月の月末に発送するので、手元に届くのは初旬から中旬まで」との記述があったので少しびっくりした。そんなにぎりぎりのタイミングで届くことが信じられなかった。私の中では、あれは期限の余裕をもって届けられるのが常識という感覚があるので当然のことだ。

  その一方で、三井住友カードでは、発送するのはオリコカードと同じタイミングだが、「手元に届くのは有効期限の月の初旬ごろまで」とあるので、こちらの方が納得できる。それと特筆すべきは私には直接関係ない話だが、発送方法を従来の簡易書留ではなく普通郵便に切り替えたと言うことだ。その理由は顧客からの要望で、簡易書留だと昼間は不在がちで受け取れないからだと言う。書留ではなく普通郵便だなんて、セキュリティの面で大丈夫なのかと心配になるが、これが特に問題ないというから驚いてしまう。いずれにせよ、今の私は”果報は寝て待て”と言わんばかりにカードをひたすら待つのみで、今のところできることは何もない。

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テレビを見ていたら

ネットで人気の動画はシロハナインコ

 先日偶然見ていたテレビの番組で話題になっていたのは「インコの動画」でインコが何やらぴょんぴょんと跳ねている。その動作を何度も繰り返しているのだが、そのしぐさが何とも可愛い。どうしてそんなにぴょんぴょんしているのかと言うと、見ての通り「嬉しくて堪らない」という気持ちを最大限に表現しているらしいのだ。この動画を投稿した飼い主さんによると、旦那さんが帰って来る頃になると、この”ぴょんぴょん”を始める。どうやら旦那さんの気配をその音で敏感に感じ取り、早く会いたくて堪らないのだ。時には玄関のドアの隙間から何度も覗いていたりする。きっと旦那さんがもうすぐそこまで来ているとわかった上での行動なのだろう。

 この動画を視聴している第三者の立場から勝手なこと言うと、こんなにもインコに愛される旦那さんが羨ましい。家に帰ってドアを開けたら、いつでもインコが自分を待っていてくれるなんて、飼い主冥利に尽きるではないか。ますます可愛さが募るばかりだ。私だけでなく、旦那さんとインコの”ご対面”の場面を想像して感動してしまうのだ。このインコはシロハナインコという種類で、身体はレモン色で緑の羽根が鮮やかで美しい。このインコがこんなにも感情豊かな行動をするようになったのは、旦那さんの仕事が急に忙しくなってからだと言う。それまでのようにインコにあまりかまってやれなくなったせいで、寂しさのあまりこのような熱烈歓迎という行動に出たのではないかとのことだ。

 インコがこんなにも感情豊かだとは目から鱗で、それに鳥は当然カゴの中で飼うべきものだと言う固定観念が覆された。この動画のインコは家の中で放し飼いされているのだろう。猫や犬と同様に自由に家の中を飛び回れるので、文字通り”籠の鳥”である普通のインコとは一線を画していることも確かだ。インコを飼っているという番組のゲストの落語家は「うちのインコは時々カゴから出してやると、私の顔を突っつくだけで特に変わったことはしません。いやあ、このインコは凄いですね」と当惑している様子だった。

 この動画を見たら、きっと誰もが「シロハナインコを飼ってみたい」だの「自分もあんなに愛されてみたい」だのと思ってしまいかねない。実を言うと、私の短絡的、かつ単純な思考回路はすぐにそうなってしまった。だが、そんな瞬間湯沸かし器のような人たちがとっさの行動に出てしまわないように、番組ではサポートを忘れていなかった。要するに、「ちょっと待って」と言わんばかりにシロハナインコの性格がどんなものなのかを警告するのを怠らなかった。それによると、飼い主に対する愛情が豊かであればあるほど、その反動としてそれが報われなかったとき、あるいは不機嫌な時はどうなるかを想像して欲しいと言いたいのだ。攻撃的になったり、落ち込んだりと感情の浮き沈みが激しいと言うことは、放ったらかしにはできないと言うことではないのか。

 となると、自然と”取り扱い注意”の文字が頭に中に浮かんでくる。あの動画を見ていると、自分もああいう幸せにあやかりたいと思ってしまうのだが、どうやら思うだけに留めておいた方がよさそうだ。一瞬の幸せで満足するしかないのだが、誰もがあのインコのような精一杯の愛情を向けられることを心の底では望んでいるに違いない。かくいう私も動画を見て感動し、一瞬舞い上がったが、最後に付け加えられた警告を聞いて、はち切れんばかりになった心の風船が急激に萎むのを感じずにはいられない。愛情には代償が付き物というわけか。

 いずれにせよ、インコがまるで人間のように豊かな感情を持つことが分かっただけでも一つの発見と言える。だが、正直言ってやはり、私には猫のような「放って置いて」的な生き方をしているペットが一緒に居るのには楽でいい。

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