人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

毎日入浴し、毎日洗濯をする

毎日しない人もいるのだとわかった

 私は毎日入浴し、毎日洗濯をしている。それを当たり前だと思い、それが習慣になって、しないとなんだか気持ちが悪い。特に”しなきゃ”に囚われていたわけでもなく、ただ単にそうしたほうが気分がいいからしているだけのことだ。洗濯に関しては、昔こんな言葉を聞いたことがあった。”借金と洗濯物は溜めるな”という戒めの言葉だ。要するに、借金も洗濯物もほんの少しだからと油断していると、大きく膨れ上がりそれを処理するのににっちもさっちもいかなくなると言いたいのだ。だから少ない量でも見過ごすことなく、あるいはこまめにやってしまうの方が身のためなのだ。

 借金の方はともかく、洗濯物に関しては昔一度溜めてしまって、えらい目に会ったことがある。半日も洗濯機の御守りをしなければならず、干しても干しても衣類は無くならず、また濡れた洗濯物を干すのに時間がかかった。洗濯物がやたら多いのに往生し、面倒臭くなって嫌になった。籠一杯の洗濯物を一度に一気にやってしまおうとすると、想像以上にエネルギーを必要とするのだと気が付いた。なので、こまめに少しずつ、いやそれが少量でなくても、毎日やるのが肉体的にも精神的にも落ち着くと考えていた。

 それに今はもう違うが、以前は当時流行っていたミニマリストに憧れて、自分でも実践しようとしていた。そうなると手持ちの服が当然少ないのに、夏などは着替えの回数が多くなり、洗濯しないと着るものが無くなる。こういったことは洗濯物が乾かない梅雨時期にも言えることで、自然と「洗わなきゃ」となって身体が動く。現在は着替えには余裕はあるものの、目の前にある洗濯物を見ると見過ごせない。洗濯物の山が気になり、なんとかしないと落ち着かないのだ。そんなある日、実家に電話を掛けたら、義姉のミチコさんが「私は洗濯は毎日しないの。洗濯機に洗濯物が溜ったらするようにしている」というので耳を疑った。

 だが、考えてみるとミチコさんはひとり暮らしなのだから、そう洗濯物も溜まらないはずだ。それに下着の上に着る服を毎日取り換えなければ洗濯物はそんなには出ない。それから、ミチコさんは入浴の時皆が使うべきだと思っているバスタオルを使わない。フェイスタオルですべて済ませているから、私とは”洗濯物のかさ”において天文学的に違っている。浴室から出る時、風呂のタオルを固くしぼって身体を拭くようにしているので、その後脱衣所ではフェイスタオルで十分なのだ。「浴室ではバスタオルを使わななきゃ」はどうやら思い込みだったようだ。洗濯物を減量することによって、洗濯の回数を減らしているので、当然のごとく水道料金の節約にもなっている。

 さらに「最近は風呂には毎日は入らない。一日おきにしているの」と言うので大いに戸惑った。以前は日に何度も入っていて、お風呂が何でそんなに好きかなあと呆れていたからだ。なぜ入らないのかの理由は聞きそびれたが、先日も近所の知人と井戸端会議をしていたら、その人も似たようなことを言っていた。人が好きでしていることだから、なぜ?とあからさまに追及するわけにもいかず、それにどうでもいいことだからと聞き流した。その人は「今日は天気が悪いから洗濯しなかった」とも言っていたが、私にしてみれば、雨だろうが、雪だろうが、天気に関係なくするべきことだ。毎日”しなきゃ”ならない必須事項なのだ。

 考えてみると、若い頃は風呂に入るのが面倒臭かったこともあるが、今はとても気持ちがいい。シャワーではなく湯船に浸かることで、一日の疲れがふわっとしている間に溶けて流れていくような気がする。実際に海外旅行で、未知の土地を歩き回り心身共に疲れたときは、暑いシャワーを浴びたら生きかえったような気がした。”入浴は疲れを癒してくれる”のだと経験から学んだ。義姉のミチコさんや近所の知人の真似をする気はないが、いずれにせよ、毎日入浴し、毎日洗濯するのは”しなきゃ”に相当する事項でもないのだとわかった。

mikonacolon