人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

風に揺れるコスモスと木の実

今週のお題「秋の歌」

f:id:mikonacolon:20211110145706j:plain

▲スペインのコルドバのローマ橋とサンタ・マリア大聖堂。NHKまいにちスペイン語テキストから。

私の場合、秋の代名詞はコスモスと木の実

 秋の花って何だろうと考えてみたら、すぐに頭に浮かんだのはコスモスでした。もしかしてあの大ヒット曲のせいなのでしょうか、いいえ、おそらく子供の頃見た懐かしい風景が影響しているのです。田舎で過ごした私にとって、コスモスはあくまで野の花でした。それなのに、先日近所の花屋の店先でプランターに植えられてちんまりとしたコスモスを見つけてギョッとしました。あれ、コスモスって花屋で売っている物だったけ?となんだか不思議な感じがしたのです。コスモスは私のイメージの中では、道端に群生している、可憐で清楚な花でした。ひっそりと咲く花で、自己主張などしない平和な花でした。当時はどこの家の庭にも咲いていて、コスモスの花が咲くころになると、いつの間にか周りも秋に染まっていました。子供心にもコスモスは綺麗だと感じていたらしく、だからこそ、大人になってもコスモスが秋の代名詞だと思うのです。

 大人になり、自分の事で忙しく過ごしていたら、いつの間にか花なんて、どうでもいい物?になって気にもしませんでした。ふと気が付くと、自分の周りから季節が消えて、コスモスが無い秋にも慣れてきました。それで挙句の果てに歌を聞いて、そのイメージだけで自己満足していたのです。どこにも行けない日々が続いたおかげで、仕方なく小さい秋を見つけて楽しもうという気持ちになりました。そしたら、もうずいぶんコスモスの花を見たことがないし、あちこち探し回ってみても、昔見たようなコスモスの群生している場所は見つかりませんでした。

 子供の頃、小学校へはみんなで所定の場所に集まり、揃ったら出発する集団登校をしていました。通学路と言っても、草がぼうぼうと茂り、草むらからヘビやトカゲが出てきてもおかしくないけもの道でした。砂利道ではなかったものの、道のあちこちに雑草が生えていて、それを避けながら進んでいきました。行きはさすがに皆学校へ行かなきゃという気持ちでいっぱいなので、どんどん歩いていきます。でも帰りは散々道草をして、ノロノロとカタツムリの歩みになるのです。そう言えば、道端にコスモスもが咲いているのを見つけたことがありました。「かわいい!」と叫んで、手折ってすぐに髪に差したり、持ち帰って瓶に飾って眺めていました。たまに、どんぐりや松ぼっくりが転がっているのを見つけると、すぐにポケットに入れました。

 どこからか風に乗って、木の実が運ばれてきたのでしょう。木の実と言えば、私が住んでいた村の外れに神社がありました。その神社の周りは木々が生い茂る小さな森になっていて、秋になるとそこだけ黄金に色づきました。私たち子供はそこに山のように落ちている、どんぐり、椎の実、クヌギなどの木の実を夢中で拾いました。松ぼっくりも、今となってはあんなもの何になるの?と皮肉を言いたくなるのですが、そこは子供ですから、なんでも面白がってしまうのです。袋にある程度溜ると、今日はこれで満足とばかりに収穫した?食べられやしない木の実を持ってそれぞれの家に帰るのでした。きっと山に狩りに出かけて獲物を持ち帰る猟師みたいな気分に浸っていたのです。

 いつだったか都会育ちの友だちが小学校の頃の話をしてくれたことがありました。彼女の思い出は、秋も深まったある日授業時間にクラスのみんなで公園に行ったことでした。その頃の公園は今と違ってまだ木の実があちこちに落ちていて、宝の山だったのです。魔法をかけられたかのように黄色や赤に変身した楓や紅葉の葉っぱや松ぼっくり、どんぐり、それより少し大きめの椎の実などを拾うのが楽しかったのです。教室に戻ってくると、自分で採ってきたものを使って、めいめい自由に好きな物を作り始めました。彼女はそんな体験をしたことが新鮮で面白かったようで、今でも覚えているのでした。

 

mikonacolon