人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

栗の実がパカッと割れる音

今週のお題「秋の歌」

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▲中世に迷い込んだようなスペインのヘローナ。NHKまいにちスペイン語テキストから。

栗の木が実をつけて、熟すのを楽しみにしていたが

  3,4年前に家の近所にあった市営住宅のアパートが壊されることになりました。小さな公園が隣にあるその跡地に小さな美術館が建てられました。ある高名な画家の生誕の地と言うこともあって、いわば記念館のような役割も兼ね備えていたのです。美術館の敷地にはマツ、梅、寒椿、ツツジ、紅葉といった多種多様な木々が植えてありました。その中には栗の木もあって、冬の時期は全くの裸木で、見るからに寒々としていました。それが暖かい日差しが差し込んで、春の気配が感じられる季節になると、今までの沈黙が嘘のように、梅の木の枝のあちこちから小さな芽がではじめました。まるで人に「春が来ましたよ」と教えてくれるのかのようだなあと思い、何があろうと自然は歩みを止めないものなのだと感心したのです。

 いったん芽を吹きだしたら、栗の木の勢いはとどまることを知りません。あっと言う間に栗の木の枝は茫々として、溢れんばかりの緑の木に変りました。そして、すぐに小さな緑のイガイガの玉が付いているのを見かけたと思ったら、それらの緑のイガイガ玉はどんどん大きくなって行きました。特に夏にかけて気温が上昇するにつれて、その緑のウニ玉は成長して、野球のボールよりも大きくなりました。さて、これからは秋までしばらくは木の上で熟成して、立派な栗の実になるに違いありません。ザクロの実がはち切れんばかりに大きくなり、もう限界とばかりにミシミシと亀裂が入り、パカッと口を開くように、栗の木もそういうものなのだと思っていました。実際、子供の頃兄がどこかの行楽地から持ち帰った栗の実は茶色のイガイガに覆われ、その中にぎっしりと実が詰まっていました。だから、てっきりそんな瞬間が見られるのだとばかり想像して、ワクワクしていたのです。

 ところが、強烈な夏の日差しが照り付けるせいなのか、あるいは大きくなり過ぎた栗の実の重みのせいなのか、毎日のように栗の実が落下し始めたのです。当然栗の木の下には無数の緑のイガイガ玉がどんどん溜まっていきました。やがて緑の玉は茶色に変わっていき、朽ち果ててもはや栗の実というよりゴミになってしまいました。結局夏の間にすべての栗の実は落ちて、やたら葉が茂っているだけの”ただの木”になったのです。そんなわけで、栗の実がパカッと口を開けている場面を体験することはできませんでした。秋を待つ間もなく、夏で物語は終わってしまったのです。考えてみると、栗の木だからといって、りっばな実が生ったとしても、必ず栗の実が取れるわけではないのです。残念な結果からそんな教訓を栗の木から学んだのでした。

 栗は秋を体感できる食べ物で、栗ご飯や栗きんとんにすると、まさに「秋を食す」気分になって盛り上がります。でもその前の準備と言うか、下ごしらえは手間がかかって時間も食う作業です。だから自分のためというより、誰かのためにする方がモチベーションが上がります。先日、朝日新聞の「ひととき」欄にこんな投書が載りました。50代の女性の方からでタイトルは「祖母から送られてきた栗」でした。毎年田舎の祖母から秋になると必ずミカン箱にいっぱいの栗が届きます。その栗はちゃんと外の硬い殻を剥き、中の渋皮までもきれいに取り除いてあるので、すぐに料理に使うことができました。

 ところが、今年はいつものように箱をあけたら、なんと栗はすべて皮付きのままでした。手紙など一切添えられていないので、なぜ今年に限って皮が剝かれていないのか理由がさっぱりわかりませんでした。不思議に思ってしばらく眺めていたのですが、このままではどうしようもないので、栗の皮を剥き始めました。自慢にもなりませんが、これだけ沢山の量の栗の皮を剥くのは初めてで、特に渋皮を取るのは苦行だと感じました。祖母は毎年こんな大変な作業を孫の自分のために一生懸命やってくれていたのでした。思えば、祖母の年齢はたしかもう80歳後半のはずなのですから、もうできなくなったとしても仕方ないのです。そう考えたら、今まで当たり前だったことに、祖母の栗の贈り物に対して感謝の気持ちでいっぱいになりました。

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