人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

つくしを発見

感激し、田舎の義姉にメールした

 俳句の春の季語にもなっている、つくしを先日見つけた。つくしがどうしたの?と言われそうだが、私にとっては感激以外の何ものでもなかった。それは田舎で過ごした子供時代以来、もう長いこと出会っていなかったからだ。こんなところに生えているなんなんてという、”灯台下暗し”とも言える場所で見つけたからなおさらだ。先日都心の大型書店に行こうとして、坂道を下っていた。そこはちょうど市営住宅が立ち並んでいて、石垣が組まれ、まるで土手のようになっていた。大きな石が階段状になっているので、各段に少しスペースがあり、そこに雑草が生えていた。いつもなら周りに咲いているツツジタンポポに目が行ってしまい、まさかそんなデッドスペースなど気にすることもなかった。

 だがその日は自分でも不思議だが、何が生えているのか気になった。それで、ふと目をやると、あれ、どこかで見たことのある草、いや懐かしい植物がニョキニョキと何本も生えていた。つくしだった。こんなところでつくしに遭遇したことに感激し、一瞬見とれていた。つくしの頭は茶色くて、カリカリになり、もう旬の時期を過ぎていたが、私にとってはつくしに変わりはない。今頃見つけてもねえ、と揶揄されてしまいそうだが、そこにあること自体に意味がある。私が知っているつくしは頭が綺麗な緑色をしていた。田んぼのあぜ道に一面に生えているつくしをむさぼるようにして摘んだ思い出がある。子供の頃は食べるためではなく、友だちと競争してできるだけ多く摘むのが楽しかった。その日の戦利品をいそいそと持ち帰り、親に見せると、夕飯のおかずにとそれを卵とじにしてくれた。

 だが、正直言って、つくしのおかずが美味しかった記憶はない。あれは雑草で、大人にとってはあの苦みが美味しいそうだが、子供には意味不明の感覚だ。それでも、レンゲソウシロツメクサ、菜の花、タンポポなどと同様につくしは春の風物詩に他ならない。大人になって故郷を離れたら、一瞬にして子供の頃の記憶はどこかに消え去った。そんな風に思い込んでいた矢先に、つくしと出会った。突然子供の頃見た光景が蘇り、懐かしさが襲って来た。それでついつい田舎に一人で暮らす義姉のミチコさんにメールをした。「ねえ、聞いて、つくしを見つけたんだよ。都会にもつくしって生えるんだね」

 そう言えば、少し前に電話でミチコさんはつくしの話をしていた。いつもつくしを取りに行く川の土手に行ってみたら、もう頭が茶色くなっていて旬を過ぎていたそうで、食べごろを逃してしまったと嘆いていた。NHK第一のラジオのニュースでも言っていたが、今年は例年よりも3月の気温が高く、暖かい日が多かったせいで、つくしの成長も駆け足で進んだようだ。やはり、ミチコさんもつくしの持つ独特の苦みが後を引くようで、もうそろそろと楽しみに取りに行ったら、時すでに遅しとなったわけだ。ミチコさんの残念な話を聞きながら、私はそんなのどうでもいいのに、つくしなんて自分には関係ないとばかり思っていた。なぜなら、つくしにさっぱり縁がなかったからだ。

 「つくしなんて、何処にでも生えているんじゃないの?例えば公園なんかに」だなんて田舎に住んでいるミチコさんは簡単に言うが、自慢ではないがとんとお目にかかったことはない。つくしは雑草だから、摘んでも泥棒にはならないよねと当然とばかりにミチコさんに言ったら、意外にも田舎ではそうでもないというので驚いた。実家の近くには村の精米所があって、その裏につくしが群生している場所があるそうだ。あるとき近所の人がそこでつくしを摘んでいたら、「ここではつくしを取らないで欲しい」と言われてしまった。その発言の主は専業農家を営んでいて、畑で採れた野菜や草花を市場に出荷している人だった。その人の話ではつくしも市場に持って行くので、他の人には遠慮してもらいたいということだった。自分の土地でもないのに、そんなことを言われるのは理不尽だが、土地の言葉で”いやらしい” つまり、気まずいので、もう行けなくなってしまったそうだ。どうやらつくしはお金になるようだ。

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