人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

なぜ働いていると本が読めなくなるのか

 

本屋で見つけたときは、平然とスル―した

 ドイツ語を勉強しようと突然思い立った私は、NHKのラジオテキストを求めて大型書店に行った。かれこれ半年ぐらい行っていなかったせいか、リニューアルしていてまごついてしまった。お目当てのテキストは定位置にあって何の問題もなかったが、実は私には少し気になる本があった。それは本屋大賞の発掘部門で30年ぶりに日の目を見た井上夢人さんの『プラスティック』で、できれば買いたいと思っていた。さて、書店の1階にある検索機で調べると、在庫数34となっている。早速文庫本が置かれている4階のフロアーに行くと、すぐに見つかった。平積みされてはいたが、何と残りはたった2冊で、ぎりぎりセーフである。何冊もあれば、今度でいいかとなるが、残り少ないとなれば、心は今買わなきゃと落ち着かない。迷わず手に取って、キープする。

 『プラスティック』を手に取り、棚を通り過ぎて、エスカレーターの方向に行こうとしたら、『なぜ働いていると本が読めなくなるか』というタイトルが目に飛び込んで来た。それはどこの出版社かわからないが、新書本で、たちまち重版というコメントも付けられていた。だが、その時の私は全く興味がわかず、そんなこと誰もが知っていることでしょうというように理解した。つまり、皆忙しくて時間がないのである。いや、たとえ時間があったとしても、その貴重な時間を本を読むことに使うかどうかは個人の自由なのだ。人は働いていると、普通は気苦労が多く疲れるものである。そうでない人もいるかもしれないが、ここではごく一般の私のような凡人の例を挙げてあくまで私見を述べてみたい。

 まあ、そんなことはだれもが知っていることではあるが、疲れるから人は休息を求める。その休息の中身は睡眠であったり、何処かに出かけて気分転換する事だったり、アあるいは好きな映画やドラマを見る事だったりする。その休息の中身に読書が含まれているかもしれないが、それはたぶん世の中において、”本好き”と呼ばれる人たちに限られると推測する。「本を読みましょう。本を読むと人生が豊かになります」と声高々に世間で言われているからと言って、「本を読まなくちゃ」などと罪悪感に駆られるのはどうなのだろうか。それは本当の意味での読書の効用を逸脱してはしないだろうか。脅されて、本を読むのは辛すぎる。本を読みたくなった時にそのまさにその時に、自分が面白そうだと思った本を読む、それでいいのだと私は考える。為になるからとか、皆が読んでいるからとか、と義務感に苛まれて読むのは辛すぎるし、そんな必要はない。

 おそらく、私が今本を読んでいるのは、好奇心に駆られて、そのまま突き進んでいるだけのことだ。読書すると言う行為に火に油を注ぐが如く、役立ってくれているのは公立図書館のサイトでのネット予約である。公立図書館の予約システムのおかげで、新聞の新刊書の広告で見た良さそうな本が瞬時に予約できてしまうので、天にも昇る幸運をいつも味わっている。好奇心と最良の環境が私を読書へと導いている。良さそうな本だと思っても、いざ手に取ったら、自分勝手な勘違いはいくらでもある。そうなったらそうなったで、途中でやめてそのまま返却するだけのことで、すぐ忘れてしまえばいい。自分が読む本は自由に選んでいい。正直私は、自分が読む本を新聞の広告で見たり、専門家の書評を読んで選ぶことが多いが、実際に読んで面白くないことも多々ある。

 読んでいて辛い、辛すぎてもうページを捲りたくない時がある。あるいはつまらなくて,うんざりし、ひと思いに放り投げたくなる時がある。それでも、これらの本は問題作だの、名作だのと世間で言われているらしい。そうなると、私って本物がわからないどうしようもない人という見方をされるのだろうか。などと、ネガティブなことを柄にもなく考えてしまうが、すぐに馬鹿馬鹿しいという結論に落ち着く。そうだとしても、最後まで読めないのだからどうしようもないし、どう頑張っても理解不能なのだからなす術がないので諦めるしかない。

  ただ、これだけは確かだと思うことがある。それは本を読まないと、私の頭は空っぽで何もない空虚な箱でしかないと言うことだ。折も折、私は現在、ドイツ語に夢中で図書館で借りた本は放ったらかしのまま日々を過ごしている。

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