人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

招かれざる客

突然のフェイントに戸惑うも、すぐに切り替えて対応

 昨日久しぶりに親友と会ったが、彼女は何だか元気がなかった。気になって理由を聞いてみると、実家に一人で住んでいる義理のお姉さんに”カウンター”を食らったらしい。彼女のお兄さんは5年前に亡くなったのだが、それ以来毎年お正月は実家に泊まりに行っていた。先日も年末年始のことを相談しようと電話を掛けた。いつものように「いつから来るの?」と言われるとばかり思っていた。ところが、お姉さんの反応は「年末はいないの」だったので、彼女は何のことだかわからなくて「ええっ?ええっ?」と言うだけで言葉が出なかった。するとお姉さんは「うちにお正月はないの」だなんて、またもや意味不明なことを言いだした。

 一体全体何が起こったのか。彼女は不意の出来事に衝撃を受けてしまったが、すぐに切り替えて「お姉さんが元気で頭がおかしくならない限り、私はそっちに行くからね」と反論した。それなのに相手は「頭がおかしくなったの!」と冗談めいた口調で返してきた。これはタダの冗談なのか、あるいは本当に義姉が認知症になってしまったのかと恐ろしくなった。だが、すぐにいつもの義姉に戻って一安心し、食べ物の話題になった。おせちは食べるのかとか、何が食べたいかとの話で盛り上がった。年末の30日にそちらに行って、1月の5日に帰ると伝え、話の最中に誰かが尋ねて来たというので、そのタイミングで電話を切った。

 電話を切った時点では彼女は実家に行く気満々だった。年末年始に夫と二人で家で過ごすことに耐え切れなかったからで、実家に行かないという選択肢はなかった。あちらに行けば、据え膳上げ膳でなんでも義姉がやってくれてラクができるからだった。行きたい理由は一番がそれで、二番は義姉と楽しくおしゃべりができること、それに犬や猫がいて彼らが可愛くて会いたいからだ。今年も当然そうなるはずだったのだが、だんだんと嫌な気持ちになってきた。つまり、義姉が頭がおかしくないとしても、自分が泊まりに来るのをあまり快く思っていないのではないかという疑念が湧いてきたのだ。

 家に人が来るのを喜んでいるのなら、あんな言葉は冗談だとしても口からでないのではないか。実は以前義姉に「ええ~!?来るの?来なくてもいいのに」とお盆の時に言われたことがあった。その時はその言葉の意味を深く考えてみたことなどなくて、ただひたすら、自分の気持ちを押し通した形で実家に行っていた。我儘を言って昔のように甘えていたのだ。だから、ひとりで自由に暮らしている家に、他人が泊まりに来るのを拒む気持ちは理解できる。自分の生活のペースを乱されるのが嫌なのだろう。こちらからしたら、何も一年に一度や二度のことなのだから、受け入れてくれればいいのに、あるいは、いつもひとりなのだからたまには賑やかなのがいいのになどと言う勝手な思い込みは通用しない。

 それに義姉はランチに一緒に行く友だちに困らない社交的な性格だ。一番仲良しの人は趣味も食べ物の好みも、物事に対する感じ方もピッタリなのだと聞いたことがある。義姉は正直な人で、でも頼まれれば嫌とは言えない性格でもあるので、仕方なく面倒見てくれているのかもしれないとは薄々は感じていた。今まではぐらかして、直視しようとしなかった真実を思い知らされた、今回はそんな状況だった。

 またいつものように知らんぷりをして実家に行けばよかったのだが、今度は自分の気持ちが楽しくないとNOと言う。とてもこんな気持ちでは着替えを詰めた宅配便を送り、予約した列車に乗るために駅に行くことは不可能に思えた。だいたいが身体が動きたくないと拒絶反応まで出していた。ネットで行きの電車の事前予約までしたのに、以前として心は沈んだまま、こうなると、義姉に断りの連絡を入れなければならない。

 さて、どんな理由なら、本心を相手に悟られることなく、自分も傷つかずに済ませられるだろうか。ふといいアイデアを思い付いた。外国に行っている長女が3年ぶりに帰国するとの理由なら、相手も納得するだろう。そんな事実は全くないが嘘も方便で、人と揉めないためには役に立つ。電話での態度を指摘し、腹を立てて、相手を咎めることもできるが、それでは双方とも嫌な気持ちになるだけだ。彼女は争うことは望まない人だ。それで、スマホで「お正月のことだけど、娘が来ると連絡があったので、行けなくなった。ごめん」とメールを送った。すると夕方になって電話が鳴った。義姉の声は「寂しいけど、娘が来るなら仕方ないね」との言葉とは裏腹に楽しそうに高ぶっていた。それを「断ってくれて、ありがとう」と彼女は受け取った。

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なぜか気になる家

トタンが赤茶けた家、それは一見、廃屋だが・・・

 最近また散歩のコースを変えた。その理由は何のことはない、些細なことで、その方向に歩けば、大好きなBOSSの缶コーヒーの自販機が2つもあるからだった。缶コーヒーを買って帰るのを習慣にしているので、いつものコースでは売り切れになることが多かったからだ。新しい散歩コースでは駅へと続く大通りの両側に自販機はあるのだが、通勤に利用する道の脇にある自販機が売り切れになったことがあった。となるといつもは通らない反対側に信号を渡っていかなければならない。面倒だが、仕方がないので缶コーヒーを買うためだけに歩いて行く。そのまま交差点まで行こうとして、一軒の古びた2階建ての木造住宅があるのに気が付いた。トタン屋根は赤茶けていて、人が住んでいそうもない空き家、と言うか廃屋だとばかり思っていた。ガスメーターも撤去されて使えなくなっている。

 だが、以前夕方反対側から見たら、2階の部屋に灯りが見えた気がした。その時はまさかと思ったが、どうやらこの家には人が住んでいるのだと確信できる出来事があった。それは玄関の引き戸に付けられている錠前がかかっていないことがあるからだった。いつも朝通ると錠前がちゃんとかかっているが、週末になると錠前が掛けられていない。つまり、誰かがその家に帰ってきているのだった。ただその家の前を通りすぎるだけなのだが、気にしていたらある変化に気が付いて自分だけで面白がっている。昨日の月曜日に見たら、錠前はちゃんとかかっていたので、その家の住人は朝が凄く早い人か、あるいは、日曜日の夜にはどこか他の場所に帰って行く人なのだろう。

 週末だけ過ごす家、それがその家の役割で、家の住人はおそらく仕事か何かで遠い場所にいるのだと想像できる。となると、なぜガスメーターを外したのかが理由がわからない。まあ、その辺のところはそんなに追求しなくてもいいか。近頃はオール電化の家もそう珍しくはないし、ガスがなくても電気で十分事足りてしまうのだから。廃屋だと信じていた家に人が住んでいることに驚いたが、よく見るとトタンの赤さびが酷いのを除けば、所々ちゃんと綺麗に直してあるので問題はなさそうだ。廃屋と言うと、今にも崩れ落ちそうな家を想像してしまうが、その家は古ぼけた空き家というよりも、今風の言い方をすれば”古民家”とも言える。

 古民家という言い方は耳障りがよくて、なんともおしゃれ?な響きがあるが、田舎育ちの私にとってはただのボロ家でしかない。いずれにせよ、その家に対してあまり好奇心をエスカレートさせないようにしなければならない。私としては、もう錠前の謎が解けたのだからこれ以上はその家を“見張る”必要は無くなった。どんな人が住んでいるのか、その人は普段はどんな生活をして居るのか、はすべて私だけの妄想の中で楽しむことにしよう。最大限の想像力を働かせて、小説を書いてみるのも面白いかもしれない。そうすれば、誰に迷惑をかけることもないし、誰かを傷つけることもない。

 その家を通りすぎると、すぐに大きな鳥居がある神社が見えて来た。ふと境内の方に目をやると枯葉の絨毯で覆われていた。ここはまだ6時前なのにも関わらず門が開いていて、どれだけ朝早いのかとびっくりする。普段はじっくり見たことなどなかったが、その日は壁に取り付けられたガラスケースの中を覗いてみた。「七五三」と書かれた紙の横に「やろうと思わなければ、寝た箸を竪にすることもできん 夏目漱石」との文面を見つけた。予期せぬ夏目漱石の格言との出会いに少し面食らった。なぜそこに漱石なのかは知る由もないが、何度もその言葉を声に出して言ってみた。なるほど漱石先生の言うとおり、意志というものがなければ、人は箸さえも動かすことはできないのだと思い知る。最初から諦めていては、できることもできなくなるということを言いたかったのだろうか。

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今朝、寝ぼけ眼の訳は

夜中に目覚めて、W杯の中継を見たら

 連日の睡眠負荷のせいか、眠くて堪らず、昨日は10時前に布団に潜り込んだ。そのせいか夜中に一度目が覚めて、時計を見たらもうすぐ2時になるところだった。もちろん眠いが、私には気になることがあった。それはワールドカップのフランス対デンマーク戦で、特にフランスの強さに関心があった。どのくらい強いのか、どう戦うのかに興味津々で、自分の目で見てみたくなった。パソコンを立ち上げて、アベマTVをクリックすると、ちょうどハーフタイムで、前半戦のハイライトをやっているところだった。点数が気になって見てみると、意外にも0対0でまだどちらもゴールは決めていなかった。両チームの実力が拮抗しているから、この状態なのかとも思ったが、フランスはチュニジアにすでに勝っていて、勝ち点3をあげているから、無理はしないのだ。その一方でデンマークチュニジアと引き分けているから、積極的に行くべきなのに。

 「両チーム共に、なんだかおとなしめな試合展開ですね」と解説の前日本代表監督の岡田武史さんが言う通りなのだ。だが、試合がこのまま終わるとは到底思えなかった。フランス代表のスーパースターであるエムバペがゴールを決めるとその後すぐにデンマークも同点にして対抗した。後半戦は両チームが積極的に仕掛けて見せ場を何度も作っていたので、見ている方も凄くワクワクした。デンマークは勝ちたい気持ちを前面に出していたが、フランスの個の力には太刀打ちできなかった。エムバペとグリーズマンのコンビが躍動して、気持ちで迫るデンマークを寄せ付けなかった。フランスはやっぱり強かった。エムバペは早くも今回のW杯で3ゴールを記録した。

 試合の途中で観客席が映し出されて、ある黒人男性の顔がアップになった。誰だろう、この人は?とふと思ったら、岡田さんが「リリアン・テュラムが来ているのですね。フランス代表のマルクステュラムのお父さんですね」と言うので、解説のアナウンサーが「親子関係ってあるのですね」と相槌を打っていた。さらに岡田さんが「名選手の息子はまた名選手と言うわけですか」と納得したように呟いた。それを聞いた私は何のことだかわからなくて、と言うより親子でW杯に出場だなんてあり得るのかと信じられなかった。

 もっとも、サッカーのことなどよく知らない私にわかるはずもないのだが、テュラム選手のことが気になったので、いつものようにネットで検索した。「テュラム」だけで検索ワードにもう上がっていて、どれだけ有名人なのかがわかる。ネットのウイキペディアによると、テュラムは「守備の鉄人」と呼ばれ、DFでありながらW杯で2得点を挙げている。またW杯連続出場記録保持者でもあるそうだ。イタリアのパルマで活躍し、「ボッヘン、カンナバーロテュラム」と言えば、鉄壁の守備の3本柱だとの記述もあった。ただ試合を見ているだけでなく、思いがけなくも未知の知識に遭遇できたことが嬉しかった。親子2代で揃ってW杯出場の事実に目から鱗で、改めて世界は凄いなあと思えた。

 今現在、当然のようにアベマTVでサッカーを見ているが、新聞で藤田晋さんのことを知ったときの反応は「ふ~ん」と言うような軽いもので、自分事とは思えなかった。11月1日の夕刊で「アベマTVで全試合無料放送」とデカデカと衝撃的なタイトルが目に留まったが、それはアベマ会員に限られるとばかり思っていた。それなのにW杯直前になると、会員登録して見てみようかと言う気になってついつい検索してしまった。「アベマでW杯を見る方法」と入力するとアベマTVの画面が出て、そこには「視聴する」と表示されたアイコンがあった。さすがにすぐにクリックするのをためらったが、よく読んでみると、会員登録は要らないとわかって仰天した。誰でも無料で全64試合が見放題だなんて、こんな世知辛い世の中においてはなんと太っ腹なのだろう。私は驚くと同時に物凄く感激し、降ってわいたようなこの恩恵にあずかることにした。

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ひとり旅でお勧めの場所

貴方が行きたい場所に行けばいい

 ちょっと前に、ダッシュボードに『みんなのお題』というのが載っていた。その中で特に気になったのは「今度初めて一人旅をするのですが、どこかお勧めの場所はありますか」というものだった。私の中では旅と言えば、海外旅行と決まっていて、国内は眼中になかった。それで自分なりに考えてみたのだが、その時は一人旅に最適な場所はどこかなどという正解にたどり着けなかった。つまり、お題の作成者が一番知りたい答えを提供することができなかったのだ。一人旅初心者にとって一番親切なアドバイスとは何なのかがわからなかった。当方は全くのアドバイスなしで、行きたい気持ちに引きずられて、なんだかんだと必死になっているうちに出発日当日になった感じだ。

 だから、「あなたが行きたいところに行けばいいし、その場所こそがあなたがひとりで行くべき、まさにお勧めの場所なのです」などと訳の分からないことを書きそうになったが、役にも立たないと思い直して、書くのをやめてしまった。だが、よく考えてみると、お題の提供者の意図は「予期せぬトラブルに合うことなく、できればスムーズに旅行ができるフレンドリーな人々がいる場所」を知りたいのではないか。私が今まで旅した経験から自由に書けばいいのかとも思ったが、そこには必ず個人的な偏見が入ってしまうので、余計な先入観を植え付けてしまうのは良くない。

 例えば、私の一番最初の旅行先はイタリアだったが、人気があるだけあって人も皆親切だった。それに対して、これもよく言われることだが、フランス人はそっけない。だが、フランス人が皆そうかと言うと否で、それにパリの街の魅力には抗えないのだ。ルーブル、オルセー、ブーランジェリー等の美術館や、街全体がアートともいえる街並みはまさに別世界に来たように感じられる。最初は冷たい、つまり異邦人とは関わらない排他主義者だとばかり思っていた人たちが、だんだんと普通の人、いやそれ以上の存在になっていくのにそう時間はかからなかった。

 自分が困っているのを目撃したら、黙っていても声をかけてくれる、なんてことを期待してはダメなのだ。そんなときは自ら動く、つまり躊躇せず助けを求めればいい。助けを求めても、無視されたり、相手にされなかったりすることもある。彼らは皆日常生活を送っていて忙しいから、へたくそな言葉遣いで近づいてくる異邦人を胡散臭そうに見つめて避けようとする。やみくもに手あたり次第近づいて行っても空振りに終わるだけだ。だから、助けを求める相手を慎重に選ばなければならない。急ぎ足で歩いている人はやめて置くに限る。足止めしたら、嫌な顔をされるのがおちだ。なるべく余裕のある人を選ぶ、あるいはなにかの制服を着た人なら間違いなく親切にこちらの話を聞いてくれる。

 私の一番のお勧めはタクシー運転手さんで、彼らは物凄く親切で頼りになる。以前パリオペラ座の近くにあるホテルを予約したことがあって、私の予定では空港からのバスを降りて自力で行けると思っていた。だが、夕方で薄暗く、ホテルのある場所を近くにいる人たちに教えて貰ったにも関わらず、道が複雑で迷ってしまった。このままでは最悪ベッドで眠れそうにないと観念し、さてどうしたものだろうかと考えた。こんな時日本のような交番があればいいのだが、残念ながら、パリの街にはそんな便利な物はなかった。仕方がないので、ひとまず、頭上にひときわ輝いているプランタンデパートの王冠のオブジェを頼りに大通りまで歩いた。そこで、誰かに助けを求めれば、何とかなるはずだった。思った通り、交差点では沢山の人が信号待ちをしていて、時折日本語も聞こえてきた。

 彼らに話しかけようと思った瞬間、「もし彼らが観光客か何かだったら、道を聞いてもわからないのではないか」という考えがふと心の中に浮かんだ。ではどうすればいいのか。幸運なことに、斜め前方に「TAXI乗り場」のサインが見えた。そうだ、彼等なら間違いなく、私をホテルまで運んでくれるのだ。タクシー運転手さんこそ、あの状況において私が頼るべき人だった。断っておくが、この時まで、私は彼らに対してあまり好感情をもってはいなかった。だが、追い詰められた私は彼らを信用するしかなかった。危機一髪。幸運にも無事にタクシーでホテルまでたどり着くことができた。その時以来、私の固定観念は一変し、未知の土地において一番頼るべき人はタクシー運転手さんではないかとさえ思うようになった。

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料理、日本人は楽しくない?

料理を楽しめないのは誰のせいなのか

 あるコンサルティング会社の調査によると、日本人は米国や中国などに比べると料理を楽しめていない、という結果が出たそうだ。「料理で楽しいことは何ですか」と言う質問に、「店で食材をえらぶこと」とか「作った料理を褒められること」とかの答えは妥当だし、「料理しない」のもその人の自由でいい。だが、「料理で楽しいことはない」には仰天した。正直言って、少々毎日のご飯の支度が面倒になっていて、できれば上げ膳据え膳が理想だと儚い夢を抱いる私でさえも、料理への夢は捨てきれてはいないのだから。料理への夢だなんて言っても何のことはない、食いしん坊の私が見る夢は食べたいものを好きなだけ食べることだ。つまりから揚げが食べたいと思ってスーパーの総菜売り場に行ったら、パックに入ったから揚げがあるにはあったが、量が少なくて、それなのに値段が高すぎる。チロッとしか入っていないのに300円もするだなんて納得がいかない。これでは幸せが一瞬で終わってしまって、想像するだけで虚しい。

 それなら、いっそ自分で作ってしまえとなって、鶏もも肉を買って帰って早速下ごしらえをする。その時は生来のめんどくさがり屋の性格は影を潜め、ただただ食べたいという欲望だけで胸がいっぱい。ルンルンでとり肉を切り分け、ポリ袋に入れたら、しょうがとにんにくを加えて、醤油で下味をつける。その際、袋をモミモミして肉に味をなじませる。唐揚げ粉を塗したら、粉まみれのとり肉を次々と油の中に投入する。じっくり揚げて、カリカリになったから揚げは最高のご馳走だ。自分で「作りたて」、「揚げたて」をそのまま食べられるのも料理をする特権と言えるだろう。

 とまあ、このように私の場合は、突然嵐のように湧いてきた欲望が、いざ料理へと向かわせるのだ。だから、その時の料理をしている最中の私の心は踊っていて、楽しくないはずがない。楽しい料理と言えば、私の中では高校生の時に熱中したケーキ作りだ。当時はケーキを作って食べることが楽しくて、ケーキの材料がいくらとかの余計なことを考えなくて済んだ時代だった。純粋にバナナケーキやパウンドケーキを作る作業を楽しんでいたし、また誰かに食べてもらいたくて作っていた。

 料理が好きだと自他ともに認める知人は、料理は気分転換になるから好きだという。それでは何のことだかわからないので、詳しい説明を求めると、「料理をしている時は無心になれる」からだなんて、当方の心はどうにもこうにもしっくりとはこない。たぶん、そういう人が作る料理は毎日毎日のやらなければならない義務のような料理とは一線を画しているのだろう。昨今は「毎日のご飯の献立を考えるのが辛い」とか、「今日はごはんできれば作りたくない」とか言う悲鳴があちらこちらから聞こえてくる。本来料理をすることは食べることに繋がるのだから、楽しいことのはずなのになぜなのだろう。

 先日NHKのまいにち中国語のテキストに連載されているエッセイを読んで、目から鱗が落ちた。多田麻美さんという翻訳者の方が中国の文化や家庭事情を紹介してくれていて、中国には子供のお弁当を作る習慣はないそうだ。お弁当と言えば、日本では母親が作るのが当たり前で、お弁当を作ってもらえず、菓子パンを食べている子供は肩身が狭かった。日本人はお弁当を母親の愛情表現のひとつと考える固定観念でがちがちになっているだけなのだろうか。お弁当を作るのが当たりまえの環境では「辛い」だなんて口が裂けても言えるわけないのだ。

 それに中国では毎日の食事作りに関しても、柔軟な考え方があって、夫婦どちらかがやればいいそうで、男性が料理を担当することも珍しくない。昔から夫婦共働きが浸透している中国だからこそ臨機応変に対応ができているのだろう。また朝ごはんに関しても自分で作るのではなく、近所の店で買って食べるのが普通と言うのだから驚かされる。だから、料理は嫌々やるものではなく、自分の食べる楽しみと誰かのために楽しんでやるものだ。料理は本来はウキウキする作業なのだ。

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パンプキン詐欺って何?

見当もつかない発想、言葉遊びがおもしろい

 毎週日曜日の朝日新聞に掲載されている『朝日歌壇』を楽しみにしている。自分では歌を作らないが、よそ様の作った歌を見ては「うまく表現できてるねえ」と感心したり、「その気持ちわかるわぁ」と思わず膝を打ったりしている。短歌は短い詩のようなもので、俳句よりも私のような素人には分かりやすい。昨年亡くなった叔母がたしなんでいたこともあり、ひとつやってみるかと重い腰を上げたこともあったが、季語という厄介な約束に阻まれて敢え無く挫折した。短歌の方が断然わかりやすい、いやそれでも中には全く作者の発想の情景を理解できなくて、ポカーンとしてしまうこともある。そしてその歌が複数の選者に支持されているのを見るにつけ当惑するしかない。つまり、自分の中ではピ~ンとこなくて、その歌の何がいいのか、どこがいいのかが全く理解できないのだ。となると、これはもう感性の違いで、努力してどうこうの問題ではないので、それ以上は関わるのはやめて忘れるに限る。

 そんな『朝日歌壇』にも毎年『番外地』と言う企画があって、過去に寄せられた歌の中から”選外ながら味わい深い歌”を特集してくれる。その中で、私が注目したのは「パンプキン詐欺」と言う言葉で、パンプキン詐欺って かぼちゃの押し売りなの ふと問う孫に座布団一枚 という丸山富久治さんが詠んだ歌だ。一瞬「パンプキン詐欺」って令和の新語で若者言葉かと勘違いしそうになったが、実は還付金詐欺の還付金をパンプキンと聞き間違えた?だけのことだった。よく聞いてみれば、ただそれだけのことだが、馬鹿にすることなかれで、そのセンスはいい線いっているではないか。日曜日の人気番組『笑点』なら間違いなく座布団一枚貰えるレベルだ。語呂合わせ、と言うか聞いたら誰でもクスッと笑わずにはいられない。たぶん、お孫さんは小学生、いや、もっと小さいのかもしれないが、素直な疑問をサラッと口にしているのがとても新鮮に感じる。だからこそ、丸山さんはその瞬間を見逃すことなく、瞬時に短歌として記録したのだ。

 大人には到底思いつけない、いや逆立ちしたって出てきはしない発想、それが子供には自然と備わっているようだ。事実、『朝日歌壇』には4人の選者がおられるが、彼等が満票を投じた歌を詠んだのは常連の小学生の男の子と女の子で、しかも二人は姉弟だった。果たして彼らはどんな素晴らしい歌を詠んだのか。4人の選者の心を鷲掴みにした歌というのはどんなものなのか。先日それを知る幸運に恵まれたが、意外にもそれはごくごく日常の風景や心模様を詠ったもので、ガーンと心に響くような衝撃が全くなかったので気が抜けてしまった。取り立てて目立つような刺激的な表現などどこにもなく、意図的に比喩を効かせているわけでもなかった。

 彼らはその時その時の自分たちが感じたままを平易な言葉で、というか、誰にでもわかる言葉で素直に表現するだけだ。それが子供らしいと言えば、それまでだが、大人には真似ができない芸当らしい。大人はどうしたって、何とか体裁よくとか、自分だけの表現をしようと欲深くなってしまうので、肝心の気持ちがぶれてしまって、他者には伝わらない傾向があるのかもしれない。それに子供は大人が気付かない日常の風景を切り取るのが得意なのだ。もちろん大人だって子供だった頃はそうだったのだが、大人になるに連れて、いつの間にかその特技を忘れてしまうようだ。

 もう一つ注目したいのは「コロナっとる」と言う言葉で、松本進さんの歌、久しぶり 元気じゃったか? それがなあひどくはないが コロナっとった に使われていた。コロナ関連の歌は今年も天文学的に多かったが、「コロナっとる」なんて、面白い言葉は聞いたことがなかった。間違いなく新語大賞に選ばれても可笑しくない。コロナで高熱が出て、布団に寝転がっているしかない状態とコロナという感染症の名前との語呂合わせとも受け取れる。言われてみれば、すぐに合点がいくのに、自分ではなかなか思いつかない表現だからこそ、共感できるのだろう。

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椅子に座れない!?

座るのに困る椅子、あれにはどんな意図が?

 昨日の朝日新聞の『ひととき』を読んだ瞬間、遥か昔の記憶が蘇った。それは某有名コーヒーチェーンの店で椅子に座るのに苦労?した思い出だった。投稿の記事のタイトルは”椅子に負けない”で、68歳で158cmの決して背が高いとは言えない初老の女性が戸惑いを赤裸々に告白していた。彼女が言いたいこと、その状況を経験済みの私にはよく理解できる。ただ、彼女の感じ方とは違って、当時の私には店側の戦略としか思えなかった。つまり客に長居をさせないように、”意地悪”をしているのではないかと誤解していた。

 投稿の主の方はビールが大好きで、家では発泡酒で我慢しているが、たまに外に出掛けたときはビールを楽しむことにしている。先日もある洋風居酒屋のような店に行って、「ひとりです」と店員さんに言ったら、カウンター席に案内された。ここまではなんてことないごく普通の流れだが、そこからがいつもの状況とは一線を画していた。当然のごとく椅子に座ろうとしたら、なかなか座れない!?あれ~一体どうなってるの?。お尻が椅子の上に乗せられないのだ。この店のカウンターの椅子は背もたれがないし、どう見ても普通よりかなり高くできていた。テーブルの下にあるステップに足を乗せて踏ん張って、それこそよじ登るような感じで何とか椅子に座ることができた。

 考えてみれば、ここの店は若者向けで、背が低い自分のようなおばさんが利用するにには不向きなのかもとの考えが一瞬頭をよぎった。椅子に座ってみてわかったのだが、何と椅子とテーブルの高さが同じで、そこからだと、なんだか天界から下界を見下ろすような気分になるから新鮮だった。特筆すべきは彼女が未知の店で「椅子に座れない」というショックを味わいながら、最大限のやせ我慢をしたことだ。「『椅子に座れないので、やめておきます』とは、格好が悪すぎて言えない」ので「胸、足、腹の筋肉にあらん限りの力を込めて」頑張った結果、見事成功したというわけだ。さらに、「お店に入るのに、椅子の高さを確認しなければならない日が来るとは思いもしなかった」と嘆いている。

 この方の目から鱗の体験はつい最近のことだが、私の場合はもうずいぶん前のことだ。いつものように近所に住む知人と立ち話をしていたら、高校生の娘さんの話題になって、その娘さんにしょっちゅうお小遣いを請求されると嘆いていた。最初は一体何のことやらわからないので、理由を尋ねてみた。すると、今の子は自分の家では試験勉強が気が散ってできない、なのでカフェでやろうとするからお金がかかるらしい。それに嘘のように集中できて勉強がはかどるのだと娘さんが言うのだから、反対もできない。事実、そのカフェの前を通りかかって中をチラッと覗いてみると、若者で溢れていた。もちろん、私も時々は利用していたが、ある日久しぶりに行って見たら、店内のレイアウトが変わっていたので面食らった。

 私が行くのはもっぱら朝の早い時間なので好きな席を選べるはずだった。だが、飲み物を買って席を探そうとして、仰天した。カウンター席も、テーブル席もすべてどう見ても高めにできていた。まるで身長180以上の人向けに作られているとしか思えない。一瞬座ることを躊躇したが座ろうと試みた、だが、敢え無く失敗、さすがに諦めかけたが、再び頑張ってみた。今度はよじ登るような無様な格好にはなったが、何とか座ることに成功した。その時の気分は山の頂上から、下界を見下ろすようで爽快だといいたいが、そうではなかった。座り心地が悪くて、なんだか緊張してきた。要するに落ち着かなくて、早く地上に降りたくて堪らなくなった。ゆっくりしたいとか、何かに集中したいとかの思惑とは正反対のシチュエーションに打ちのめされた。あの空間に身を置くことが苦しくて、急いでその場を立ち去った。

 今思うと、なんだかあれはひとつの現代アートのようなものだった。無機質な空間にスタイリッシュなカウンター、テーブルと椅子、まさにそれは眺めて楽しむものだった。

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