人生は旅

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料理、日本人は楽しくない?

料理を楽しめないのは誰のせいなのか

 あるコンサルティング会社の調査によると、日本人は米国や中国などに比べると料理を楽しめていない、という結果が出たそうだ。「料理で楽しいことは何ですか」と言う質問に、「店で食材をえらぶこと」とか「作った料理を褒められること」とかの答えは妥当だし、「料理しない」のもその人の自由でいい。だが、「料理で楽しいことはない」には仰天した。正直言って、少々毎日のご飯の支度が面倒になっていて、できれば上げ膳据え膳が理想だと儚い夢を抱いる私でさえも、料理への夢は捨てきれてはいないのだから。料理への夢だなんて言っても何のことはない、食いしん坊の私が見る夢は食べたいものを好きなだけ食べることだ。つまりから揚げが食べたいと思ってスーパーの総菜売り場に行ったら、パックに入ったから揚げがあるにはあったが、量が少なくて、それなのに値段が高すぎる。チロッとしか入っていないのに300円もするだなんて納得がいかない。これでは幸せが一瞬で終わってしまって、想像するだけで虚しい。

 それなら、いっそ自分で作ってしまえとなって、鶏もも肉を買って帰って早速下ごしらえをする。その時は生来のめんどくさがり屋の性格は影を潜め、ただただ食べたいという欲望だけで胸がいっぱい。ルンルンでとり肉を切り分け、ポリ袋に入れたら、しょうがとにんにくを加えて、醤油で下味をつける。その際、袋をモミモミして肉に味をなじませる。唐揚げ粉を塗したら、粉まみれのとり肉を次々と油の中に投入する。じっくり揚げて、カリカリになったから揚げは最高のご馳走だ。自分で「作りたて」、「揚げたて」をそのまま食べられるのも料理をする特権と言えるだろう。

 とまあ、このように私の場合は、突然嵐のように湧いてきた欲望が、いざ料理へと向かわせるのだ。だから、その時の料理をしている最中の私の心は踊っていて、楽しくないはずがない。楽しい料理と言えば、私の中では高校生の時に熱中したケーキ作りだ。当時はケーキを作って食べることが楽しくて、ケーキの材料がいくらとかの余計なことを考えなくて済んだ時代だった。純粋にバナナケーキやパウンドケーキを作る作業を楽しんでいたし、また誰かに食べてもらいたくて作っていた。

 料理が好きだと自他ともに認める知人は、料理は気分転換になるから好きだという。それでは何のことだかわからないので、詳しい説明を求めると、「料理をしている時は無心になれる」からだなんて、当方の心はどうにもこうにもしっくりとはこない。たぶん、そういう人が作る料理は毎日毎日のやらなければならない義務のような料理とは一線を画しているのだろう。昨今は「毎日のご飯の献立を考えるのが辛い」とか、「今日はごはんできれば作りたくない」とか言う悲鳴があちらこちらから聞こえてくる。本来料理をすることは食べることに繋がるのだから、楽しいことのはずなのになぜなのだろう。

 先日NHKのまいにち中国語のテキストに連載されているエッセイを読んで、目から鱗が落ちた。多田麻美さんという翻訳者の方が中国の文化や家庭事情を紹介してくれていて、中国には子供のお弁当を作る習慣はないそうだ。お弁当と言えば、日本では母親が作るのが当たり前で、お弁当を作ってもらえず、菓子パンを食べている子供は肩身が狭かった。日本人はお弁当を母親の愛情表現のひとつと考える固定観念でがちがちになっているだけなのだろうか。お弁当を作るのが当たりまえの環境では「辛い」だなんて口が裂けても言えるわけないのだ。

 それに中国では毎日の食事作りに関しても、柔軟な考え方があって、夫婦どちらかがやればいいそうで、男性が料理を担当することも珍しくない。昔から夫婦共働きが浸透している中国だからこそ臨機応変に対応ができているのだろう。また朝ごはんに関しても自分で作るのではなく、近所の店で買って食べるのが普通と言うのだから驚かされる。だから、料理は嫌々やるものではなく、自分の食べる楽しみと誰かのために楽しんでやるものだ。料理は本来はウキウキする作業なのだ。

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