人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

テーブル周りをきれいにしたい

今週のお題「きれいにしたい場所」

混沌としているのは新聞のせい

 私が本当に綺麗にしたい場所は、とりもなおさず、今こうしてブログを書いているテーブル周りで、いっこうにスッキリしない。テーブルと言っても、昔一人暮らしの時に貰ったこたつをテーブルとして使っている。今まで足の折れる折り畳みのテーブルを使っていたこともあるが、どうしても足が壊れてしまうので、これが一番長持ちしている。ブログを書く時には、テーブルに何も置いていない状態が集中できて一番いい。筆記用具やNHKの語学テキスト、メモ用紙などをすぐ側に置いてある本棚に一時避難させる。だが、実を言うと、私のひざ元の、テーブルの下にはごっそりと紙の山ができている。何の山かというと、新聞の切り抜きの山で、興味のある記事や、人として知っておくべき環境問題などが話題に上っているとついついハサミで切りぬく。

 切り抜く側から、スクラップすればいいのだが、それが面倒でできない。切り抜くだけで、本人は満足し、以前は横にある本棚にポイと投げて終わりだった。そのままで取っておいたことさえ、忘れている。次の日もその動作を繰り返すものだから、新聞の切り抜きでうず高い山ができて、肝心の本が見えなくなったので、やむなく別の場所に移す。何のことはない、単に目の前から紙の山が消えただけのことで、ちゃんと押入れに存在している。本棚に投げ込むのは邪魔でしかない。となると、空いているのはテーブルの下で、本人はとりあえずのつもりで気軽に置くのだが、これが結構な量になっているのを発見する。新聞の切り抜きだけではない、図書館で借りた本も、NHKの語学テキストも、全て一緒くたになっている。まさに混沌の極みだが、なんせ忙しいので、テーブルの下を覗く暇がない。要するに、見えないものはないのと同じで、私の神経を逆なですることもなかった。だが、一度でも見てしまったら大変で、たちまち何とかしなければと強迫観念に駆られてしまう。それもその時だけで、すぐ忘れるのだが。

 こんな時何をすればいいのかはちゃんとわかっている、整理整頓すればいいのだ。気まぐれに手に取った新聞記事の切り抜きを、とっておくべきかどうかの見極めるために、読み始めた。すると、面白いので興が乗ったせいか、気が付くと結構な時間が経っていて、あれあれ、こんなことしている場合ではないと気付いて慌てた。まだ、新聞の切り抜きを処分する頃合いではないらしく、またその判断をする決断力さえも皆無なのである。恐ろしく時間がかかる作業なので、おいそれとは取り掛かれない。それに、毎日来る新聞を読まなければならないのだから、時間が足りない。

 新聞を3紙も取っていると、とても楽しくて毎日が充実していると同時に、その処分が面倒臭いことこの上ない。つい最近も新聞をビニール紐で縛る作業をしていて、新聞なんてなければいいのにとふと思ってしまった。新聞をわざわざ取っているからこんなに手間がかかるのである。今にして思うと、ただ新聞をビニール紐で束ねるぐらいたいして時間はかからない。なのに、そんなふうに思ってしまったのは、私の心に何か問題があったのだろう。毎日の食べる行為にしたって、必ずゴミは出るのだから、それと一緒だと考えれば、納得がいく。

 新聞なんて、お金がかかるだけで、何の役にも立たないと、思ったかどうかは定かではないが、一時新聞を取るのをやめてしまったことがある。そうしたら、すぐに寂しくなって、新聞販売店の前に設置されている販売機の新聞を買いに行くようになった。何日か経って気が付いた、こんなことをしているくらいなら、月ぎめで取った方がいいと。新聞は私にとって空気のようなもので、あって当たり前で、無くなったら、どうにもこうにも落ち着かない存在だ。

 なので、テーブル周りを綺麗にしたいと切に願うが、当分、いや、まずはそんなことは到底無理なのだ。何かに熱中すると、すっかり新聞の存在を忘れ、一面だけ見て終わりの時もある。だが、それでいいのだと思うことにしている。ただ、最近気になる連載小説が新しく始まった。数々のテレビドラマの原作者で、有名な人気作家の湊かなえさんが介護問題を扱った連載を開始した。タイトルは『C線上のアリア』で早くも11回になり、これからの展開が楽しみだ。

mikonacolon

押入れの中、何とかならないものか

今週のお題「きれいにしたい場所」

押入れの中は、私にとってはパンドラの箱

 先日、新聞を見ていたら、能登半島地震に関連した記事が載っていました。石川県主催の防災アドバイザーの木下千鶴さんが災害時に役に立つアドバイスをされていて、次のような究極の提案でした。「たくさんの物を家に置かないで。地震の後の片づけが大変で、捨てるにお金がかかってしまう」。

 こんなことを言われて、ふと自分の家のことに思いをはせると、自然と押し入れの中のことが気になりました。何を隠そう、うちの押入れは何でもかんでも要らないものを入れてある、一時避難所なのですが、いつの間にか永遠の置き場所になっているんです。とりあえずのつもりが、定位置になってしまって、処分するにも踏ん切りがつかないのです。いつか使うだろう、そのいつかが永遠に来なくても、保険みたいに、御守りみたいに置いておきたいのです。そりゃ、私だって、嫌々ながら、一発奮起して、押し入れの中の衣装ケースをチェックし、綺麗さっぱり要らないものを処分したこともありました。

 ところが、コロナが流行って世の中は激変し、冷蔵庫代わりに利用していたスーパーや、日用品の倉庫だとばかり思っていたドラッグストアからもあらゆるものが消えました。溜め込むという行為を必要ないと判断し、家に物がほとんどない状態の私は焦りました。マスクが売っていないので、手造りしようにも、材料の布がないし、ゴムひももありません。あの時捨てていなければ、困らなくて済んだはずです。ミシンだって通販で買った安物があったはずなのですが、あまり役にも立たないからと処分して、いい気になっていました。

 考えてみると、まさかあんなに物がない世界が突然やって来るとは考えが及びませんでした。ミニマリストを目指していたはずの私は急遽方向転換を余儀なくされました。不用品をすっぱり手放すのではなくて、一応キープしておくことにしたのです。それはとりもなおさず、いつか必ず来るだろう不用品でさえも役に立つ”そのとき”のためなのです。何もないより、せめて何かあった方がいいに決まっているという考えから溜め込もうとしているのです。コロナ禍の時の苦い経験が私にそうさせているのは明かです。

 私はできれば、押し入れの中をほぼ占領している衣装ケースを開けたくありません。パッと見ただけで、透明なケースの中に何が入っているかは一目瞭然です。いくつもある衣装ケースの中身はどう考えてもあまり着ない衣服が大半です。普段着る服はもう決まっていて、その他の着ない服は処分したいのですが、これがなかなか難しいのです。着ないともうわかっているのに、もしかしたら着るかも、とか、後でとっておいてよかったと思うかもとか、不毛な自己問答を繰り返し、うんざりします。最低最悪な気分に陥り、見るのも嫌だとばかりに衣装ケースの中の物を元に戻し、押し入れを閉めてため息をつくのです。

 それと、私にはもう着なくなった下着やTシャツを捨てないで取って置く習慣があります。それは海外旅行の時に持って行って、帰国時に現地で捨ててくるためです。もちろん、出発時と帰国時には自分の身体には綺麗なものを身につけます。つまり少しでも荷物を軽くするためで、昔読んだ旅の達人の海外旅行術の本にアドバイスとして書いてありました。実際、この裏ワザは物凄く役立っていて、以来ずうっと利用させてもらっています。一方で、そんなこととは露知らない誰かが、私の衣装ケースを覗き見したとしたら、なぜこんなものを溜め込んでいるのかと怪訝に思うでしょう。その誰かから見れば、私は”変な人”に違いありません。

 となると、私は溜め込んだ古い下着やTシャツを処分するために海外旅行に行く必要があるわけですが、とんでもない、そんなストレスは一切ありません。それらに関してはイライラさせられることはありません。必ず役に立つモノたちですから。むしろ、私を悩ますのは、存在する意味がないのに、そこにあるモノたちのことです。単にあれば安心できるからとか、後で後悔するのは嫌だからと言った、訳のわからない、まどろっこしい理由で捨てられないでいる、優柔不断な自分の心を何とかしなければならないのです。

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ICレコーダーが限界にきた

目覚ましの音が鳴らなくなった

 今朝私は寝坊をした。まさか、まさかのICレコーダーから、NHK第一のニュースが聞こえなかったからだ。いつも2つのICレコーダーをセットし、最初は5時10分、次は5時15分に鳴るようにしていた。いくら私がネボスケでも、二段階認証のごとく、目覚ましをかければ、安心だと今までずうっと信じて来たのに、ついにその日が来た。その日とは、今活躍しているICレコーダーの引退で、近頃はやたらと電池がすぐなくなるとは気づいていた。だが、それがなぜ今なのか、と歎いてみても始まらない。手っ取り早く現実を受け入れた方が身のためである。

 念のため、オンタイマーをリセットし、目覚ましが鳴るかどうかを確かめる。確かに鳴ることは鳴るが、音量が24なのに何とも優しい音で、これでは目覚ましとしては役に立たない。因みに最大音量の30にしてみるが、普通なら耳をつんざくばかりの大音量のはずなのに、全然平気だ。明らかに音が出なくなっている、要するに寿命なのは明かだ。今朝布団の中でもうすぐICレコーダーが鳴るはずと思っていたら、寝過ごしてしまった。家人に「どうしたの?」と呆れられる始末で、なんとも体裁が悪かった。

 いつも、NHKラジオの「大谷選手が移籍第一号のホームランを打ちました」との最新ニュースや、「雨雲が本州付近に向かって移動中です」などの天気予報を聞きながら、目覚める習慣になっているのに、今朝は何も聞えなかった。慌てて起き上がってみたものの、暫しぽかんとして動けなかった。何も考えられなかった。いつものルーティンが狂ってしまったおかげで、今日はトイレと台所の床掃除はサボった。やりたいが時間がないので、まあ、良しとしよう。

 さて、問題はICレコーダーをどうしようかということで、まだ使えるなら、騙し騙し使い倒そうと思った。当然明日も頑張ってもらわないといけないので、音量を最大の30に設定しておく。今晩からはICレコーダーを枕元に置いて一緒に寝ることにする。音量が低いとなると、NHKの語学番組がちゃんと録れているかどうかが凄く気になった。幸い大丈夫なようだが、それも時間の問題で早急に新しい物を買った方がいいことは言うまでもない。ICレコーダーを二つ買わなければならないとなると、二つで3万円ほどの出費である。

 ふと、今あるICレコーダーはいったいどのくらい使っているのだろうと気になった。過去にNHKの語学番組を録ったマイクロSDカードを取り出して、調べてみた。すると、一番古い期日のものは2016年の10月3日から11月25日となっていた。2016年と言えば、今から8年前ということだ。何でも電気機器は10年持てばいいと思っていたが、それはあくまで理想で、普通は8年も経てば、ガタが来て当たり前だ。私が愛用しているICレコーダーにもついにその時がやってきたて、それが今なのだった。これからはどんどんその機能が衰えて来て、やがては録音ができなくなるかもしれない。そうなったら元も子もないので、すぐにでも買いに行きたい。だが、今の私には大事な用事があってすぐには行けそうもない。

 大事な用とは、眼科での視野検査の予約のことだ。昨年9月に右目が炎症を起こして検査した結果、左目の神経が普通の人よりも薄い部分があることがわかった。それの何が問題かというと、緑内障のリスクが大きいということで、年に何回かの定期検査が必要だと先生から言われた。視野検査は両目の視界がちゃんと開けているか調べる検査で、20分にも及ぶので、疲れてしまう。もちろん時々休憩は挟むのだが、何しろずうっと集中力を必要とするので、私などは想像しただけで逃げ出したくなる。ただ、目が見えなくなると考えるだけで、もう絶望感が半端なく襲ってくるので、嫌でも受け入れるしかない。

 ICレコーダーの話に戻ると、買ってから8年にもなるので、最近はどういう機種になっているかもさっぱりわからない。まずはネットで検索してみてから、ビッグカメラに買いに行くとしよう。

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目立たない所を綺麗にしたい

今週のお題「きれいにしたい場所」

いつも思うのにすぐ忘れてそのまま

 自慢にもならないが、私の掃除の仕方は適当で、見た目至上主義のいい加減なことこの上ない。パッと見て、綺麗に見えるのならそれでよしで、いつも自己満足している。そんな私でも、イラついている時や、根拠のない不安に取りつかれている時などは、普段は気にならない汚れがやけに気になる。例えば、壁にある電気のスイッチに手あかがついているのを発見した時などは、「わあ、嫌だ、汚い!」と触るのもおぞましいように思うが、そう思うのはその時だけで、すぐ心の中から消えてしまう。すぐに行動に移せばいいのに、嫌悪して終わりで、ちっとも視界が開けない。思うのは勝手だが、思うだけでは根本的な解決にはならないのに、すぐ忘れることで解決したと錯覚しているのである。

 偶然?発見した汚れている場所を綺麗にすれば、どれだけ気持ちよくなれるかは十分想像できるが、面倒臭さが邪魔をして身体が動かない。一番気になっているところは洗面台で、台所のシンクよりもはるかに始末が悪い。なぜなら、シンクは色がシルバーなので、薄暗かったりすると、汚れが目立たない。だが、洗面台は陶器で輝くような白ときまっている。うちの洗面所は薄暗くて、電気をつけない限り、洗面台がどうなっているかはよくわからない。つまり、ぼんやりとした白さに見えるので、それで助かっている。以前、洗面台をようく観察してみたら、白いどころかまだら模様ができていた。はて、最後に掃除したのはいつだっけと胸に手を当ててよく考えてみても、答えは出ない。

 実を言うと、私は洗面台をどんな洗剤で磨いたらいいか、わからなくて、全ての洗剤を導入してゴシゴシやっていた。テレビでアルカリ洗剤を使ったやり方を知って、試してみたが、あまり落ちない。それに、まずはあの白さを維持できること自体、夢のようだとつくづく思う。どうにもこうにも上手くいかないので、やけを起こした私は、トイレの”混ぜるな危険”と表示された洗剤を使ってしまったことがある。その洗剤で毎日トイレ掃除をしていると、あら不思議、CMでやっている”サボったリング”とは無縁になった。とにかくよく落ちてピカピカになるのだが、困ったことには気を付けないと着ている洋服にも白い模様がついてしまうのだ。それで、ジーンズを2本ダメにした経験がある。

 トイレ洗剤の威力に感心した私は、洗面台にも早速使ってみた。洗剤はジェル状になっているので、ビニールの手袋をはめた手で洗面台の表面に伸ばして塗った後、5分ほど待って水を流す。洗面台本来の白さを取り戻すことができて、めでたしめでたしと言いたいところだが、塩素臭さが鼻につくのが難点だ。暫しの間だけで、またすぐに白だか何だかわからない鼠色になってしまうのだが、それでも、清潔で白さが際立つ洗面台は快適なことこの上ない。旅行で宿泊したホテルのピカピカの洗面台を思い出す。

 自ら積極的に動いて、懸命に汚れを落とす行為は、ある意味、気分転換できる要素を持っている。最近そのことに初めて気が付いた。例えば、先日などは自分でも理由が探せないほど憂鬱な気分だった。いつもは見過ごしている台所のシンクの汚れが目に付いて、我慢ならなくなった。寝ようとしていたのに、すぐにパジャマの袖をまくり、クレンザーをスポンジにつけて、シンクを磨き始めた。その時の自分はいつもの面倒臭がり屋の自分ではなく、ただ綺麗にしたいだけという純粋な心でもって動いていた。ものの10分ほどで、シンクは綺麗になった。そしたら、いつの間にかあんなに憂鬱だった気分がすっかり消えていた。自分としては、実に不思議な感覚だった。時には掃除が気分転換になりうるのだと大発見でもしたように感じた。

 だから、目立たない場所や、隅っこの汚れを取り除いたら、さぞかし爽快な気分になれるに違いないと想像できる。誰にも気づいてもらえないだろうが、それは私だけの秘密でありささやかな喜びであっていいとさえ思う。

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掃除した記憶がない冷蔵庫の中、冷凍庫の中

今週のお題「きれいにしたい場所」

気にもしていないので余計に気にかかる

 冷蔵庫の中、冷凍庫の中のことをわざわざ思い出して、話題にしてみると、なんだか心配になってきた。何がそんなに気になっているのかというと、言うまでもなく庫内の衛生状態のことだ。持ち主の私が掃除した形跡はないが、はた目には気になる汚れもないので、そのまま放置していた。本当は年末の大掃除、いや何も年末でなくてもいい、一年に一度くらい大掃除をすればいいだけのことだ。だが、何ごとも”言うは易く行うは難し”で、行動が伴わない。綺麗にすれば、努力しただけの達成感がムクムクと湧いてくることはわかってはいるが、なんせ肝心の身体が動かない。まあ、いいか、現状維持でもと自分を宥め宥めて、他のことを、自分のしたいことの方に気を向けて無視して終わりだ。

 最後に冷蔵庫の掃除をしたのはいつだったろうか、記憶が定かではない。そう言えば、以前冷蔵庫の中に入れて置いた残り物の汁が垂れて、庫内が汚れたことがあった。焦って、焦りまくってできるだけ早く何もなかったことにしようと、素早く行動した。すぐに汚れが解消し、綺麗になった瞬間、心の平安を取り戻してホッとした。あの時以来、掃除をしていなかった。今ふと思いついたのだが、冷蔵庫に汚れ指数の数値みたいなものが付いていて、その指数がマックスを示してくれたなら、俄然掃除をする気になるかもしれない。人間は、あくまでも私は数値に弱いので、それが「掃除を絶対しなければならない」ことを警告してくれるのなら、迷わず従うはずだ。はっきり言って、掃除をしていない年数?に関わらず、今のうちの冷蔵庫は見て見ぬふりしてもいい状況にある。衛生状態のことなど眼中になければ、このまま現状維持でいいと思えて来る。だが、こんな考えはやはり危険だ。

 冷蔵庫の中、冷凍庫の中は共に私の悩みの種にはなっていない。私の神経を逆なですることもしないので、それが逆に私の掃除への意欲を奪っているとも言える。だが、そんな私でも、たまに掃除する場所がある。それは野菜室で、いつの間にか野菜が入っていたビニール袋や、たまねぎが入っていたネットが押し合いへし合いして、化石のように堆積している。野菜室の白い床が見えないほどになって、ようやく”これはまずい”とものぐさな私でも思う。考えてみると、買ってきた野菜を次々と野菜室に入れ、取り出して使い、無くなったらまた補充することを繰り返していた。入れるだけで、余計なものの始末をしないと、どうなるかというと、いわゆるごみの中に野菜を入れているようなもので、野菜がごみで埋もれて、見えなくなった。取り出したい野菜の姿がはっきり見えなくてイライラする。

 そうなると、これはもう掃除をするしかない。使いたい野菜をさっと取り出せないのはストレスなので、取り除くことができるなら、躊躇している場合ではない。四の五の言わずすぐに行動に移し、これまで溜めて来たごみの多さに仰天する。あるはあるは、いったい何年、いや、何か月分だろうかと想像して、よくもこんなに溜めたものだと笑い転げたくなる。掃除を終えて、ピカピカの野菜室を眺めて悦に入りながら、どうせまたいつかは混沌の状態に戻るのかとため息をつく。生きている限り、掃除は必須事項なのだから。

 綺麗な冷蔵庫で思い出すのは、子供の頃遊びに行った近所の子の家の冷蔵庫で、とびっきり綺麗だった。いつも4,5人で遊んでいたが、その子の家の親は出かけていて、家にはいなかったし、もちろんおやつなどというものは出なかった。平日だったので、おそらく父親は会社に行き、母親はスーパーでパートをしていたのだろう。ある時、なにか食べ物がないだろうかと、冷蔵庫を開けてみたことがあった。その家は4人家族なのだから、いくら何でも何かあるだろうかと期待したら、何もなかったので皆がっかりした。特筆すべきは、本当に何もなくて、冷蔵庫の中が綺麗すぎることで、子供ながらもの凄い衝撃を受けた記憶がある。庫内の白さがひときわ際立っていた。今思い出しても、まるで生活感がない冷蔵庫で、子供が二人もいる4人家族の家の冷蔵庫だとはとても思えない。いったいあの家では毎日何を食べていたのだろうかと謎が深まるばかりだ。

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それはズバリ、口の中

今週のお題「きれいにしたい場所」

綺麗にしたいが、よく見えない

 私にとって、きれいにしたい場所は五万とあるのですが、すぐに思い浮かんだのは、口の中です。つまり歯に関連したことなのです。それはこれまでの苦い体験と、これからも続く苦難の日々を如実に物語っている発想なのです。ここのところ、歯医者で経過観察で済んでいたのに気をよくしていい気になっていました。だが、そんな穏やかな日々は歯医者の先生の一言で終わりをつげ、またまた歯科治療の憂鬱な日々を送らなければならなくなりました。上の左奥歯に、何と2本の歯に虫歯が見つかったのです。念のため「レントゲンを撮りましょうか」と先生に勧められてわかったのです。もっともその2本は差し歯なのですが、差し歯にしたからと言って安心できません。持ち主の知らない間に、虫歯は進行するので、油断大敵です。

 かくして、今の差し歯を外すのに身の毛もよだつあのギイ~ンギイ~ンという振動を我慢し、やっとのことで差し歯が外れました。それからは俎板の鯉のごとく、先生にお任せし、本場の型どりをしました。コスパを重視する先生は、定期検診で虫歯が見つかった時点で、用意周到に借り歯を作っておきました。なので、2週間後には本歯が出来上がってきます。問題なのは1万円ほどの出費が発生することです。以前のようにロシアから原料が手に入れられないために、差し歯や銀歯の価格が相当に高騰しているようです。たしか以前は1本に付き4千円もしなかったのにと溜息をついたところで、それが何になるでしょうか。黙って受け入れるしかありません。

 そんな時は以前新聞に載っていた米国在住の特派員の人のコラムを思い出して、まあいいかと納得するのです。アメリカでは出産費用が200万円かかるだの、医療費が天文学的に高いだのと聞いたことがありました。そんなことを聞いても、別世界の事でピンときませんでした。ところが、特派員の人の「虫歯治療に3万円、神経の治療や差し歯を入れたら、その10倍費用が掛かかった」との記述を読んで、震え上がってしまいました。幸い、その人は会社の健康保険に加入していたので、後からお金が戻って来るようですが。

 となると、毎日の歯のケアは欠かせません。昔から風邪ぐらいでは外国人は医者には行かないで、オレンジジュースを飲んで済ませるのだと噂されていました。でも、歯に関してもそうなのでしょうか。お金がかかる、それも大金が必要となれば、自然と足が向かなくなるものですが、歯に関して言えばそれは難しいです。歯の痛みとお金とを天秤にかけたら、迷うことなく歯の痛みが勝ちます。いくらお金がかかってもいいから、歯の痛みをどうにかしたいと心から願うでしょう。

 別世界の話はさておき、健康保険に加入していて、普通に治療が受けれられる私でも、それなりに悩みはあります。それは口の中がどう努力しても、コントロールできないということです。歯に関して言えば、見えない歯の裏側や奥歯は別にしても、しっかり自分の目で見えている前歯さえも、虫歯菌から守れないことに無力感を覚えます。毎日、それなりに時間をかけて、細心の注意を払って磨いているつもりです。いいえ、歯磨きだけでは足りないので、歯間ブラシも2種類使って、食べかすを取り除いています。歯医者の先生に、「歯間ブラシは歯周病予防で、虫歯の予防にはフロスなんですよ」と言われて、頭をガツンとやられて以来、フロスで歯と歯の隙間をごしごしとやるようになりました。

 でも、それだけでは足りません。なぜなら上の歯の裏側はブラックホールのごとく目に見えず、未知の世界で、一体全体どうなっているのかさえも見当がつかないからです。磨いているつもりで、一応歯ブラシを当ててみるのですが正直虚しいです。そのことを歯医者の先生にぶっちゃけると、「それだからこそ、お手数ですが、定期的に歯医者に通ってもらう必要があるのです」と諭されてしまいました。「はっきり言って、ゴールは無いのですよ」とも言われ、生きている限り付き合いは続くのだと思い知らされました。

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つくしの異変

どうして今頃、生えてくるの?

 昨日いつものように散歩をしていて、面食らった。なぜなら、ありえない場所につくしが生えているのを見つけたからだ。それは去年ゾロゾロとつくしが群生していた場所で、坂道に面して建っている市営住宅の敷地にある石垣のようなところだった。3月に入ってから、もうそろそろと楽しみにしていたが、何も生えてはいなかった。それもそのはず、冬が来る前にすべての雑草を草刈り機で根こそぎ取り去ったからだ。普通なら雑草が繁茂し、これでもかと伸び放題になっているはずだが、草刈り機の威力には抗いきれないらしい。つくしどころが、雑草一本だって生えてはしない有様だった。うまい具合に土の中に雑草の種子でも隠れてはいないだろうか、あるいはわずかなつくしの生命の一滴でも残ってはしないかと淡い希望を抱いてみたが、無理な注文だった。

 去年つくしが生えていたその場所を見上げると桜が綺麗に咲いている。桜の木は太陽の光を全身で浴びているが、つくしの居場所は日当たりが悪い。まあ、つくしはそんな日陰の場所に生えているものだが、桜とつくしのコンビネーションが信じられなくて、新鮮な驚きを私に与えてくれた。もちろん、坂道を急ぎ足で通り過ぎる人は私などには目もくれない。いったい何をしているのですか、何か探しものですか、などと声をかけてくれる人などいやしない。皆自分のことで忙しく、他人のささやかな言動を気にかける暇などないようだ。いや、別にそんなことはどうでもいい。それに、私が、「ちょっと見てください。こんな時期なのにつくしがどんどん生えてきているんですよ」と自然の生命の不思議を強調したところで、「それがどうしたのですか?」と呆れられるにきまっているだろうから。

 それを良いことに、私は朝っぱらから、「凄い、凄いねえ」とひとりごとを言いながら悦に入っている。たまに人が通り過ぎても、気にしなくていいので気が楽だ。桜が満開の季節につくしと出会えたことに、今年は無理かと諦めかけた矢先につくしを発見できたことにとても満足している。たかが、つくし、でも季節外れのこの時期に出会えたからこそ、余計に気になってしまう。それどころかつくしは今が成長期らしく、地面からニョキニョキと顔をいや、頭を出してぐんぐん伸びているところなのだ。ふと周りを見ると、スギナもちらほら姿を見せて、少ないながらも他の雑草も生え始めてきている。もしかしたら、この日当たりが悪い石垣は今がちょうど春の目覚めを経験しているところなのかもしれない。

 最近の目まぐるしく変わる天候を考えると、植物が勘違いしてもおかしくはない。近所の桜は今が満開だが、もうすでにツツジも開花している。あれ、桜の次がツツジではないのかと私などは二つの花の同時進行の開花に戸惑っている。そうなると、次に咲くのはアジサイかと気の早いことを言いたくなる。今気になっているのはハナカイドウの花で、ピンクの小さな可憐な花が美しい。そう言えば、岸本葉子さんが日経に連載しているコラムの中で、自宅マンションの猫の額のような庭にハナカイドウを植えたと書いていた。岸本さんの部屋は一階だが、家にいても桜が見たいと思った。自宅の窓から何か心が華やぐようなピンクの花が見たいと知り合いの庭師さんに相談したら、桜は無理だが、ハナカイドウならと勧められた。岸本さんの狭い庭では桜は根っこが広がりすぎて向かないようだ。最初は残念に思った岸本さんだが、今ではハナカイドウにとても満足しているそうだ。

 花見に行かなくても、いつでも桜が見られるのは限られた人だけに与えられた特権だと言っても過言ではない。岸本さんのコラムを読んで、これもひとつの贅沢かもしれないと実感した。思えば、コロナ禍のおかげで、それまでないがしろにしていた自然との交流が始まった。そんなことに構っていられなかった、お金や時間のコスパにばかり気を取られていた自分を省みる時間を与えられたのだ。

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