人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

病気の母との思い出

今週のお題「忘れたいこと」

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母との思い出で、嫌な面や自分の愚かさは忘れたい

 先日の新聞の投書で見つけたのは『母と一緒の日曜日が大好き』と言うタイトルの文字でした。その投書の主は埼玉県に住む専門学校生の19歳の女性でした。なぜ日曜に母親と過ごすことがそんなに楽しみなのか、最初は不思議に思いました。でも内容を知ってしまうと、「なるほど」と合点がいきました。彼女は高校生の時に父親が亡くなり、その後立て続けに祖父母も亡くなって、6人だった家族は3人になりました。今では母親は仕事をするようになり、自分は専門学校に行くために朝5時に家を出ます。帰ってくるのは夜の8時半過ぎで、母親はもう寝ています。つまり、1週間のうち家族と顔を合わせるのは日曜日だけなのでした。

 それで、今まで「何の意味もないただの休み」だった日曜日が「とても大切な日」だと思い始めました。考えてもみてください、家族なのに、同じ家に住んでいるのに日曜日以外は全く会えない生活がどんなものなのか。まるで同じアパートに住んでいながら、偶然が重ならない限り、会わない隣人のようなものです。寂しさを感じずにはいられないのでしょう、だからこそ家族の大切さに気付いたのだと思います。普通なら、友だちとどこかに遊びに行きたい年頃なのに、よりによって相手が母親だなんて、事情を知らなかったら理解に苦しみます。

 前置きは長くなりましたが、私はこの投書を読んで、ふともう忘れたはずの母親のことを思いだしたのです。子供の頃病気で亡くなった母親のことは遠い記憶の彼方にありました。私の家は父が役所に勤めていて、母は自分の家で食べるだけの野菜を畑で作って家計の足しにしていました。45歳で私を産んだ母はある日畑仕事をしていて、鍬を使っていた時に何らかの弾みで腰を痛めてしました。それからはいっこうに痛みが収まらず、接骨院に行ったり、針を試してみたりしました。そのうちに歩けなくなり、家でも赤ん坊がするような”ハイハイ”でしか移動ができなくなりました。本人はよく”いざり”と呼んでいましたが、動けなくなるよりはましでした。でもしだいに痛みが全身を襲うようになり、ほぼ布団の上での生活になりました。

 その頃は父が母の面倒を見ていましたが、用事で出かけている時は母は私を呼びました。病気で身体が自由にならない人間というのは、本当に我儘で容赦ないものでした。私のやり方が気に入らないと、イライラして物凄く怒ってひどい言葉を浴びせられました。どうにもならない、やるせない気持ちをどこにぶつけていいのかわからないのでしょう。母親の気持ちなど理解できない私は茶碗を投げつけられて、ギョッとしたことを今でも覚えています。

 以前大原麗子さんが亡くなったとき、親友だった浅丘ルリ子さんが読んだ弔辞を思い出します。「麗子、あんなに優しかったあなたが、電話するたびにひどい事ばかり言う人になってしまうなんて!辛くて堪らなくて、私はもう電話は二度としないと決めました。でないと、私はあなたを嫌いになってしまいそうだったから」

 要するに、人を襲う痛みは恐ろしいまでに人間の性格までも変えてしまうのです。ギランバレー症候群で闘病中の大原さんも例外ではありませんでした。私の母は優しい人でしたが、親戚との間にいろいろあって、少し被害者意識が強かったのも確かでした。母は私が何気なく身体に触れただけでも「痛い!」と叫んで私を睨みつけました。子供だった私は大好きだった母が怖い人になってしまったことが物凄くショックでした。母が別人になって、誰か知らない人になったような気がして目の前が真っ暗になりました。その後母が亡くなったときの悲しみよりもその時の衝撃の方が大きかったのです。

 自分の母親を思い出すとき、いい思い出もたくさんあるのに、嫌な思い出もたくさんあるのは仕方ないことかもしれません。できることなら忘れたいので、時が経てば消えてしまえばいいのにとさえ思うのに、それがそううまくはいかないようなのです。

mikonacolon