SNSでなぜか共感する人が増殖中?
私は新聞を3紙購読しているが、最近気になる言葉を発見した。それは「風呂キャンセル」というワードで、よく見ると、風呂に入らないことであり、ある意味恥ずかしいことではないか。だが、近頃は、その気持ちわかる、と共感の嵐が吹いているらしい。おそらく、風呂に入らないことは自分だけの秘密で、誰にも言えない後ろめたさがあったのだろうが、いざ、誰かが打ち明けると、自分だけじゃなかったと安心するのだ。
大体が、世界ではどうなっているのか知らないが、日本においては風呂は毎日入るものという常識がまかり通っている。なので、風呂に入らないだなんてことは、口が裂けても皆の前では決して言えないことだった。それなのに、「風呂キャンセル」はここにきて、俄かに市民権を得たのである。といっても、私個人としては、到底共感する気にはなれず、困惑するばかりだ。ただ、風呂キャンセルに至るまでの気持ちはようく分かる。実を言うと、私だって、若い頃は「風呂キャンセル」しまくっていた。なぜなら、風呂に入ることに何の意味も見いだせなかったからだ。まあ、自分の事で精一杯で、周りがどう思うかなんてことはお構いなしだった。夏は少しは匂うかなあなんて気を使ったこともあったが、冬になるとまったく風呂に入る気などなかった。
冬に風呂に入ることは面倒で、苦行のようなものだった。仕事で疲れているから、風呂に入る気力がない。家の脱衣所は寒くて、服を脱ぐのが嫌だし、我慢して風呂に入ったとしても、出てくればすぐ冷める。どうやら私は冷え性のようで、折角温まった身体がすぐ冷えてしまうのも悩みの種だった。冷え性を治そうと、生姜湯を飲んで見たり、体が温まる体操をやって見たりするが効果はなかった。
考えてみると、私はずうっと風呂が嫌いだった。そんな私の転機となったのが、コロナ禍の4年間で、規則正しい生活を自分に課した。毎朝起きたら、散歩に行き、帰って来たら、トイレ掃除と台所の床を拭いた。部屋を綺麗にしたら爽快な気分になった。そうなると、自然と自分の身体も清潔にしたいと思い始めた。風呂嫌いの私にしては、とんでもなく突飛な考えだったが、何かで自分を律しなければどうにかなってしまいそうな状況だからやむを得ない。もはや、いつもの気儘な生活を続けていたら、精神的に追い込まれてしまいそうだったから。
コロナ禍での支えは、自分は今日も決めたことをちゃんとやったという満足感だった。生活の乱れは心の乱れに直結すると言うのはまんざら嘘でもないと実感できた。その日一日真っ当に送れたということが、私に何よりも安心感をもたらしてくれた。毎日風呂に入ってはいたが、風呂の中で寛げるかというとそうでもない。湯船に入っていると、退屈して、早く出たくて仕方がない。要は私のバスタイムは烏の行水なのである。シャワーの方が早いのではという意見もあるが、湯船に浸からないと風呂に入った気がしないと言う変な拘りだけは持ち合わせていた。
コロナ禍が一段落しても、風呂に入る習慣はずっと続き、今では身体が自然と動く。最近、何があったわけでもないが、湯船に浸かって、ぼうっとしていたら、何だかとても幸せな気分になれた。世の中の雑事がすべて頭から消えていたようで、何の憂いもない瞬間だった。それからというもの、私は湯船でゆっくりするようになった。
もっとも、以前から風呂の効用についてはすでに知っていた。それは海外旅行で精も根も尽き果てて、ホテルに辿り着いた時、疲れた身体を救ってくれたのは熱いシャワーだったからだ。心地良いまでの熱めのシャワーは旅人の疲れを溶かしてくれた。なので、疲れているからと言って、風呂をキャンセルしてはいけないのだ。
mikonacolon