人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

水を大量に使う生活に疑問が

 

こんなに水を使っていいものかと悩む

 作家の津村記久子さんが、朝日新聞の夕刊のエッセイで、「風呂の水を残しておくために二年前にバケツを買った」と書いていた。その理由は「大量に使う風呂の水を流してしまうことにずっと罪悪感があった」からだという。近頃は浴槽に浸かるのは水道代がかかるので、シャワーで済ませる方々が多いと聞くが、津村さんは私と同じ”浸かる派”らしい。もっとも私の場合は、あんな大量の水を一日で捨ててしまうのはもったいないので、2日おきに水を取り替えることにしている。もちろん、毎朝のトイレ掃除や台所の床の拭き掃除に利用しているが、それぐらいでは全部使い切ることは難しい。津村さんによると、自宅の洗濯機は外から水を入れると、排水してしまうタイプなので、洗濯に利用したくてもできないらしい。

 私もできればそうしたいと考えて、浴槽の水を洗濯機に移すのに使うポンプを買って来た。だが、”洗濯王子”で有名な中村祐一さんのアドバイスは「浴槽の残り湯を使うのはやめておいた方がいい」だった。なぜなら、残り湯で洗濯するのは構わないが、その後水ですすぐことになると、せっかく落ちた汚れが繊維に残ってしまうというのだ。要するに、全てお湯でやれば問題はないそうだ。どう考えても、そんなことは現実には難しい、そう考えた私は残り湯を洗濯に使うのを諦めた。

 さて、津村さんが風呂の残り湯をバケツにためて置いて、何に使っているかと言うと、手を洗う際にハンドソープの泡を落とすのに使っているそうだ。特にコロナ禍の時は念入りに手を洗って、手が泡のお化けのようになり、とんでもない量の泡を落とすのにかなりの水を必要とした。津村さんは水をじゃあじゃあ流しっ放しにすることに嫌悪感を通りすぎて、怒りさえ感じていた。なので、バケツを買って、風呂水を二次利用することで、怒りの矛先は収まったというわけだ。

 私は津村さんほど潔癖症ではないが、水道の蛇口から水が否応なく流れることにいつもストレスを感じる。それなら、ボールに水をためて、食器を洗えばいいのだが、それも面倒臭くてできない。結局、かなりの水をだだくさにしていて、何とかしなければといつも思う。そんなとき、元旦早々の地震で避難生活を余儀なくされている家族の生活がどんなものかを取材した記事を新聞で読んだ。毎朝20Lのタンク3つを抱えて、近所にある井戸まで水を汲みに行くので、腰が痛い。できるだけ水を使わない調理を心がけ、食器はペットボトルの水ですすぐ。洗濯物は一週間分をコインランドリーで済ます。「洗濯と入浴が一番大変。水が出ないとお金もかかる」と歎く声にため息が出た。

 水がどれだけ大事なものか思い知らされるが、何処か現実味がない。当たり前のことで、当事者になってみなければわからない。水道の蛇口から水が出るのは当たり前になっているのだから。津村さんのバケツに風呂水をためておくという話で、ふと思ったのは、プラ容器の水洗いのことだ。肉や魚のパックは水でさっとすすげばいい。味付け肉などの脂も使用済みのラップやテイッシュで表面を拭けば水で洗うよりずうっと簡単に取れる。ただ、問題なのはマヨネーズやドレッシングなどのプラ容器で、水で何回すすいだら、綺麗になるんだとやけになるほど手間がかかる、いや、水が必要になる。自分でも、バカバカしくなるほど水を使っている。そのまま捨てた方が地球の環境のためになるのではと、嫌気がさすほどだ。私がしているその行為は本当にSDGsになるのだろうかと悩んでしまう。

 だから、せめて、プラ容器をすすぐのに、ふろの残り湯を使ったらどうだろうか、もちろん最後は水道の水ですすぐのだが。何かの本で読んだことがあるが、日常生活において、日本人ほど水を大量に使う国民はいないとか。例えば、ひと風呂浴びるとか、うち水とか、かけ流しとか、湯水のごとく、などという、水を使った表現が豊富にある。世界でも稀有なことだと気付かされるが、現実はそう簡単に今の生活をやめられはしない。それならせめて、これからは水を大切に使うという意識だけは持ちたいものだ。

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