人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

箸の教訓

お弁当を買ったものの、お箸がない、さてどうする

 例えば、新幹線に乗り込むときに、駅の売店で弁当を買って、いざ食べようとしたら箸がない。そんなときあなたならどうしますか。先日の朝日新聞の投稿欄『ひととき』はそんな話だった。奈良市在住の今中久美子さんは、最近いとこと3人で旅行に出かけた。京都から鳥取への車中、お弁当を食べようとしたら、3人分のお弁当に箸が2膳しかなかったというのだ。う~ん、これは実に困った事態だ。二人だけ食べて、それを残りのひとりが指をくわえて見てるというわけにもいかない。それで、今中さんはどうしたかと言うと、1膳の箸を真ん中で割り、短い箸を2膳作って、何とか弁当を食べたというから仰天した。そんなユニークなことを思いつくこともそうだが、果たしてそれで上手くいくかどうか定かではないのにやってしまうところがまた面白い。

 試しにやってみると、予想通り食べにくいが、お弁当を食べられない無念さを味合うよりはまだましだ。なにぶん箸が短いので、いつも通りにはいかないが、器用な人ならまるで手品かなんかのようにうまく使えるはずだ。今中さんはこの時の苦い?経験から、今後旅に出る時は、「予備の箸を持参すべきし」との教訓を得たという。ただ、私が思うには、今どきの駅弁には弁当の包みの横にしっかりと箸のパッケージがくっついているのだが。以前駅のホームの売店で買った、アナゴ飯しかり、ひつまぶし丼しかりである。それに私なら、何とかして一膳分の箸を入手しようと奔走するに違いない。今中さんのような発想は決して私の頭の中には浮かんでこない。要するに、思ってもみなかった事態に遭遇した時に”我慢する”ということが、なんだか惨めに思えてしまうのだ。

 考えてみると、3人分あるべき箸が2膳しかなかったとしたら、これはお店の店員さんのミスだ。でも、今更文句を言おうにも後の祭りで、そうなったとしたら自分で何とかするほかない。そんなつまらないこと?で、車掌さんに尋ねたりして騒ぎ立てることは、正直面倒くさいことだが、その面倒くさい行動なしには、解決しないのだ。想像してみると、今中さんのように、短い箸でお弁当を食べるのは、なんだか恥ずかしい。周りの人の目が気になって仕方がない。お仲間がいるからこそ、その行為を正当化して安心して、お弁当を食べられるのかもしれない。いや、絶対そうだ。そもそもひとりっきりで箸がなかったとしたら、万事休すだ。

 今回の旅で、箸の教訓を胸にしっかりと刻んだ今中さんは、旅の終りにある場面に遭遇した。それは帰りの車中で、『通路を挟んだ隣席の若い女性がから揚げ弁当らしきものを食べ始めた。何と、白飯を小さなつまようじ1本で』と、見るからに悪戦苦闘している光景を目撃してしまったのだ。そうなったら、おせっかいおばさんの血が騒ぎ、思わず、割り箸をその女性の前に差し出していた。割りばしは、泊まっていた旅館からちゃっかり入手していたもので、割り箸で困った経験から、つまようじで食べる大変さは身に染みる。これはもう他人事ではなく、自分事になっていた。あくまでも今中さんにとっては自然な行動だったが、見知らぬ他人から箸を差し出された彼女は大いに面食らった。それに自分の行動を他人がしっかり見ていたかと思うと、なんだか恥ずかしい気がするものだ。

 今中さんは彼女に自分たちの失敗談、箸を持っていた理由を話して聞かせた。そうやって初めて、彼女は笑顔になり、割り箸を快く受け取ってくれたのだ。箸の教訓がこんなにも早く役に立つとは、夢にも思わなかった。思えば、コロナ禍にあっては、ピリピリして親しい仲でも何かを渡す、差し上げることは難しかったなあと、今中さんにとっては感慨深いものがあるようだ。

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