人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

入院してリラックスできた!?

近所の老婦人の話に目から鱗

 昨日の午後家で仕事をしていたら、玄関のチャイムが鳴ったので、出てみたらそこに居たのは高橋さんだった。高橋さんは近所に住んでいる85歳の老婦人で、一人暮らしをしていた。その彼女が開口一番「この間救急車で運ばれて、精神病院に入れられちゃったの」と言うので、こちらは面食らった。こちらは何のことだかさっぱりわからない、それに救急車が来たことさえ寝耳に水なのだから。話の全体像が分からず不意打ちを食らってしまったが、よく話を聞いてみると、「娘が3カ月ぶりに来て、私は寂しかったので娘の顔を見たら嬉しくて、思わず号泣してしまった」らしく、その興奮した様子に娘さんはショックを受けてしまった。自分の母親がついに頭がおかしくなってしまったと思い込んでしまった、そしてとっさに救急車を呼んでしまったのだ。

 高橋さんは普段から自分で「私この頃ちょっとおかしいときがあるの。認知症が始まっているかもしれないわ」と言うほどで、まだまだ頭はしっかりしていると私は思っていた。本人も「私は頭がどうかなどなっていない」と主張したのだけれど、病院の先生に「ちょっとゆっくりするつもりで入院したほうがいいですよ」と説得された。高橋さんは、この時先生の言う”ちょっとゆっくり”という言葉の意味が理解できなかった。私も同様に”精神病院”という言葉を聞いて、ドラマや映画でよく見るような、小説に描かれているようなステレオタイプの閉鎖的で冷たい空間を想像していた。

 だが、高橋さんはそこに10日間入院して、とても癒されたと満足げに話してくれた。そこは精神病院と言っても、普通の病院の精神科で、病院の周辺は緑あふれる地域で、大学などの教育機関児童養護施設などが多くある場所だった。高橋さんの話によると、そこは病院というよりは居心地の良い老人ホームのようなものだった。まずは何と言っても看護婦さんはじめ職員の人たちが明るく、親切で感じがいい。「高橋さんは何でも自分でできるので楽でいいわ、助かる」と言われて、気が付いた、周りの自分と同年齢の人たちは自分では何もできない人たちだった。食事が運ばれてきたら、お膳を取りに行き、自分で箸やスプーンを使って食べる。そして食べ終わったら自分でお膳を元の場所に戻して置く、そんな当たり前のことをすべて職員の人にやってもらっているのだ。

 なので、高橋さんは皆から「どうしてあなたはここに来たの?」と散々質問された。「私もよくわからないのよ」と答えるのが精いっぱいだった。「上げ膳据え膳で楽でよかったわよ」と楽しかったと言わんばかりの高橋さんに「でも、外に出られないし、自由がないから嫌でしょう」と私は本音を聞きだそうとするのだが、答えは覆らない。どうやら退屈などというつまらない感情は入り込む隙間などなかったらしい。「映画も見せてくれるし、落語だって聞けるし、何かしら娯楽が用意されている」から外に行きたいとは思わないのだ。それに、考えてみると、高橋さんは社交的な性格でおしゃべりだ。きっと一人で家に閉じこもっているより誰かと交流したいと常に思っているのだろう。75歳まで仕事をしていたのよと私に自慢し、今だって傍目からは元気な老婦人に見える。

 特筆すべきは、高橋さんが「あそこに10日間いたけど、できれば一カ月ぐらいいたかった」と真面目な顔で宣ったことだ。実際に先生に頼み込んではみたが、断られたそうだ。最近ネットで話題になった87歳の高齢者の書いた本には、「長生きは人生のご褒美」で、「有り余る時間を自分の好きなように使えて最高に幸せ」と綴られていたではないか。何よりも自由こそ幸せと書いてあったではないか。それなのに、高橋さんの場合はどうやら「自由は幸せなこと」でもないらしく、どちらかと言うと「寂しい」ことなのかもしれないと思ったら、なんだか複雑な気持ちになった。高橋さんは最後に「皆があの人どうしちゃったんだろうなどと心配するといけないから、一応報告しとこうと思って来たの」と言って話を締めくくった。それで帰ったかと思ったら、10分もしたらまたチャイムが鳴った。今度は何事かと思ったら、「何も持ってこなかったから」と言い訳をして、コンビニで買って来た甘栗を私に差し出した。

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