人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

連休初日の朝に

早朝から子供を自転車に乗せて、親は疾走する

 いよいよゴールディンウイークが始まった4月29日の早朝、いつものように散歩をしていた。大通りの交差点で信号を待っていたら,自転車が通りすぎた。その自転車の後ろには少年野球のユニフォームを着た男の子が座っていて、父親らしき男性が懸命にペダルを踏んでいた。用具が入っている大きなバッグが座席に引っ掛かって揺れていた。「あれ、試合でもあるのかなあ、それともいつもの練習?」と思っていたら、今度は先ほどと同じようなユニフォームを着ている子供を乗せた母親の自転車が通りすぎた。子どものためとはいえ、休日の朝の6時に子供を送っていかなければならないのは大変だなあ、とこちらは当然他人事のように思う。

 そういえば、以前の散歩コースではちょうど小学校の正門を通って、大通りに出ていたので、土日には校門の前で人が大勢集まっているのを見た。何の集まりかと言うと、地元の少年野球のチームが校門前でどこか野球場にでも行くのだろう、待ち合わせをしていたのだ。おそらく野球好きなのだろう、ユニフォームを着た父親が自分の車に子供たちを乗せていた。毎週のようにどこかで野球の練習をするために送り迎えをする、子供がやりたいのだから、親は子供の意志を尊重するのが当たり前、いやできる事ならそうしてやりたいのが親心なのだろう。だが、親の事情というものもあるのではないか、子供のためとはいえ、親は自分を犠牲にできるものなのだろうか、それが私には不思議でならなかった。

 なぜこんなことを書くのかと言うと、古泉智弘さんという漫画家の人のエッセイを読んだからだ。古泉さんは男女の里子をふたり引き取って暮らしていて、彼らの様子やちょっとした事件などをエッセイに綴っている。特に、うーちゃんという男の子については小さい時から何でもやりたいことはやらせて、自分も親ではなくまるで友達のように接してきた。実子ではなく里子だからなのか、普通の親が感じるような辛さは古泉さんの文章からは全く感じられなかった。里子を大いに歓迎していて、子供がいる暮らしを大いに楽しんでいた。うちに来てくれてありがとうね、子供がいる暮らしはなんて驚きに満ちているんだ、と感謝しか伝わってこなかった。

 だが、先日新聞に載っていたエッセイは普段とは全く違っていた。うーちゃんは期待通りすくすく成長し、いつの間にか8歳になって野球に興味を持ちだした。本人の希望で地元の野球チームに入って毎日が楽しそうだが、一方の古泉さんにとっては負担が増えて困ったことになってしまった。そもそも少年野球チームというのは親の協力なしには成り立たない。古泉さんも最初はうーちゃんの意思を尊重して、自分の「好きなことは何でも徹底的にやらせたい」というポリシーを貫くためにも頑張ってきたつもりだった。うーちゃんは土日になると、一日中野球をやりたがり、そうなると古泉さんはずうっとグラウンドに立っていなければならないし、また役員を任されてしまった。チームの親子全員で遊びに行く小旅行の計画も皆で話し合わなければならない。

 全てうーちゃんのためとはいえ、古泉さんは野球の経験はなかったし、正直、一日中野球場に立ち続けるのは苦痛でしかなかった。それに普段から一人で仕事をしているので、団体行動は大の苦手で、どうにもこうにも想像するだけで耐えられなかった。こうなると、子供をとるか、自分をとるかの究極の選択をするしかない。それで、古泉さんはどうしたかと言うと、自分自身の偽らざる気持ちに従って、うーちゃんに野球チームをやめてもらったのだ。「土日には仕事をしなければならないこともあるし、大人の事情もあるから」。そううーちゃんには言って聞かせたものの、自分の正直な気持ちは伝えられなかった。だから、本当に申し訳ないと心から思うが、仕方がなかったのだと書いていた。

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