人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

いつも外食のお誘いが

何もない村、でも車があれば・・・

 私の田舎の町、いや村にはスーパーも飲食店も何もないので、車でひとっ走りして行かなければならない。バスは1時間に一本あるにはあるらしいが、これまでその姿を見たことはない。そんな地域で運転免許証を返納することは、手足をもぎ取られたのと同じで、死を意味する。義姉のミチコさんも若い頃は自転車で頑張っていたが、何を思ったか、突然42歳で自動車学校に通い始めた。元々ミチコさんは免許が無くても運転だけはできた。と言うのも兄弟が車の修理販売の会社を経営していたからだった。遊びに行く度に興味半分で車を触っていたら、いつの間にか運転ができるようになった!?運転が面白くなったミチコさんは、こっそりと無免許運転を楽しんでいた。縦列駐車も車庫入れもお手の物だった。

 でもなぜそんなミチコさんはもっと早く免許を取らなかったのか。理由を本人に尋ねたら、ええ!?そんなことで!と呆れると言うか、予想もつかないことだった。つまり、ミチコさんは実技よりもペーパーテストが出来なかったらどうしようなどと悩んでいたのだ。それで40歳を過ぎるまで諦めていて、全くやる気にならなかったのだから、とんだ笑い話だ。今ではすっかり運転のベテランになったはずだが、しょっちゅう、「あ、行き過ぎた!」とか「車の列にどう入り込んだらいいの!?」だのと独り言を言っている。これじゃあ、まるで免許取りたての人みたいだといつも思う。

 ミチコさんはほぼ毎日運転をして、スーパーやら書店やらに買い物に行く。以前、車の運転は怖いと思ったことはないのかと質問をしたことがある。するとミチコさんは車に一日でも乗らないと”怖い”と感じることはあると答えた。毎日車に乗っていると、それが当たり前で安心できて、怖いという感覚が芽生える隙が生まれないのだ。それにミチコさんは生来の社交的な性格なので、「乗せて行って」と頼まれると断れない。事実、実家のある村は足がなくてどこにも行けない難民で溢れている。お金があっても、家族がいても、誰ひとり年寄りの娯楽に付き合ってくれる奇特な人はいない。皆お金を稼ぐのに忙しいので相手にしてはくれない。

 特に2カ月に一度の年金受給日の15日には、たいしてお金には困っているわけでもないのに、おろしに行きたくなる。銀行でお金を下ろすついでに町を散策したり、たまには洋服を買ったりしたいのだ。その後は食事でもして日頃できない気晴らしをする。ひとりではつまらないから、誰か適当な相手がいる、そのお眼鏡にかなった人がひとりいた、それはミチコさんで、あの人なら言うことを聞いてくれるはずだ。ひとりで自由に外出したいが、まさか家にタクシーを呼ぶことなどできない。そんなことをしたら、近所の噂になるのは目に見えているし、家族から何か言われそうだ。

 ミチコさんの携帯にはいつも数人からお誘いの電話がかかって来る。それは口コミで美味しいと評判の焼肉屋のランチとか、小籠包の店とかに食べに行こうという類のもので、本音はそこまで行く足を何とかしたいのだ。都会なら公共交通機関というものがあるのだが、悲しいことに田舎には存在しない。車の運転は必須項目で、それができないと人との付き合いも食の楽しみも同時に消えてしまうのだ。彼らはミチコさんをうまく利用しているのだが、ミチコさんはそれを承知の上で引き受けている。

 どうせ私もひとりなのだから、誰かと一緒に美味しい物を食べられるのだからちょうどいい、ぐらいの気持ちなのだろう。当然食事の代金は誘った人たちの負担になるわけだが、支払いがスマートに行かない時がよくある。ミチコさんの目の前で、「私が払うから」などと人が争うのを見るのは正直心苦しいのだ。それに食事の代金があまりにも高額だと自分で払うこともあるそうだ。

 そんな訳なので、ミチコさんは自分で言うのも何なのだが、安くて美味しい物を食べられる店をけっこう知っていると言う。そのおかげで、私はこのお盆の数日は外食三昧の日々を送った。走っている車の窓からは人がいる気配は感じられない、でもひとたびショッピングモールの飲食店街や立派な建物の店に入れば、こんなに人がいたのかと驚くほどの人の群れを発見した。

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