人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

動画の見過ぎを防ぐには

わかっていても、ついついやってしまうが

 ある日の新聞にこんな投稿が載っていた。「子供がつい動画を見過ぎてしまうことの対策として、私の家では動画を見たら、何を見たのかと、見た動画についての感想を紙に書くと言うことをやっています」。実はこれは、中学生の投稿で、本当にこんなことを受け入れているかと訝しく思った。普通なら、こんな学校の授業で感想文を書くような、面倒なことを家にいてもやらされることに対して反発することは必至だ。

 だが、この投稿者は不思議なことにすんなりとこの動画に対しての理不尽とも言えるルールを守っているようだ。しかも明確なメリットまで上げている。そのうちのひとつは動画についての感想を紙に書くことで、子供がその作業を面倒臭くなり、それならと動画を見なくなること。二つ目は、紙に書くことで、文章力や表現力が向上し、国語力のアップにつながるということ。さらに、驚くべきことに「動画を見て、感想を書いて勉強が好きなことと関連づけられたら、抵抗なくできると思います」と大いに満足しているようだ。

 このような中学生の何でも勉強に繋げてしまう向上心には、私などは感心するしかない。だが、果たして、人が動画を見る時はいったいどんな時なのだろうか、と考えると、心が勉強とは甚だ遠く離れたところにいることが多い。要するに、動画を見て何かに役立てようとか、そんなことは一切考えていない。何も考えていないのである、少なくとも、私はではあるが。例えば、以前聞いていたNHK中国語講座のMCの劉セイラさんは、心が荒れている時に犬や猫の動画をみると、癒されると言っていた。いつも元気で自信満々のセイラさんでも、心がどん底状態の時もあるのかと仰天した覚えがある。

 動画とは、わかってはいても、見てしまうもので、止めようと思っても止められないものだ。見終わって、ふと我に返ると、「あら、大変、もうこんな時間なのか」と慌てることが多い。今さら動画を見る効用を考えても、虚しいだけだ。それなりに、人によってはなくてはならないものであり、生きていくためには頼りになるもの、すがるべきものなのかもしれない。たかが動画、されど動画なのだと複雑な気持ちになる。

 今はもう興味はなくなったが、一時、「豆しば3兄弟」の動画に嵌ったことがある。たった5分ぐらいの動画だが、けっこう犬好きとしては見ていて面白い。見たいから見ているだけで、心はまっさらで、何も考えてはいない。だが、そのうち飽きて来て、今では気にも止めなくなった。なぜ動画かというと、私は毎日YouTubeでラジオ体操をしていて、その関係でYouTubeを見るようになった。いつも思うのだが、動画の数は天文学的な規模で、これらを見ていたら、一日過ごせることは間違いない。最近気づいたのは、動画によっては、ナレーションをAIが担当していて、なんだか内容が嘘っぽく聞こえると言うこと。例えば、ある動画はタイトルが刺激的で、人を惹きつけずにはおかなかった。当然私もその罠にかかった一人ではあるが、その内容ときたら、お粗末なものだった。それ以来、私は人の興味を煽るような刺激的なタイトルの動画には用心して、近づかなくなった。それだけではない、動画を一切見なくなった。どうせ見ても、その内容は自分にとってどうでもいいことだし、時間の無駄だと思うことにした。時間の使い方において、優先順位を与えるとしたら、動画を見ているその10分間の間に何かできたのではないかと考えると、なんだか損をした気分になる。動画を見ている10分間の間に、本でも読めたのではないかと後悔することしきりだった。

 動画というと、YouTubeだけでなく、ネットフリックスやU-NEXTなどの動画サービスもあることを忘れていた。以前はあらゆるサービスを試してみたが、今はどうでもよくなった。欲張りな私は適度という言葉を知らず、いつだって見過ぎてしまって、心の平安を失ってしまうからだ。自分をコントロールできなければ、近づかない方が無難だ。今は何も利用していないが、さぞや寂しくなるかと想像したが、無ければ無いで他に楽しみはいくらでもある。

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