人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

日記を書く

2歳から日記をつけてる、の記述に仰天

 直木賞作家の千早茜さんが、朝日新聞の夕刊のエッセイ『とりあえず茶を』の中で、俄かには信じられないことを書いていた。それは、2歳から現在に至るまで、ずうっと毎日日記をつけていることだった。でも、考えてもみて欲しい、天才でもない限り、2歳の子が自ら文章を書くことなどできるわけもない。そこのところはちゃんと、千早さんは心得ていて、「母が2歳の私に、今日は何があったの?と聞いて、私が話したことを書き綴ったのが始まりらしい」と説明していた。それがたぶん日記をつける習慣の始まりだったらしく、5歳の頃からは自ら日記を書いていた。そんなわけで、「今日あったことは記ささねばならない、と刷り込まれたのかもしれない」と述懐している。

 誰に話しても驚かれ、なぜ、日記をつけているのかとよく訊かれる。それで、「日記をつけないと昨日と今日の違いがわからなくなるから」とでも言ってみた。すると、ある人に「僕は毎日、区別のつかない日を送っていますよ」と笑って言われた。考えてみると、そうなのだ、私にして見ても、昨日と今日を明確に区別して、いや、意識して生活しているわけではない。要するに、外が暗くなって、もう今日は終わりですよと気付かされる。それで、「眠くなってきたことだし、今日はこれでお終い」と今日の時間を惜しみながらも、仕方がないので、布団に入る。朝目覚めた瞬間、新しい今日がはじまり、古い今日は昨日に変わる。その点において、睡眠は明確に昨日と今日を区別してくれる有難い生理現象ともいえる。

 そもそも、日記というものは何のために書くのだろうか。以前読んだある本によると、心のお掃除のような効果をもたらし、ストレスを軽減してくれると書いてあった。その日にあったことを自分なりに整理して、紙に書いてみると、心にくすぶっている靄が晴れて、心なしか気分が晴れるというものだ。これは、日記の効用とでもいえるかもしれないが、千早さんの場合はどうやら違うようだ。驚くべきことに、日記には「起きた事実のみを書いている」ようで、後で読み返してみても、それを書いた時点での心模様がどうだったかというようなことは何も思い出せないと言う。

 さらに、千早さんは過去の自分の日記を読み返していると、淡々とした日常が記されていて、ちゃんとそこに自分がいることにホッとするのだそうだ。「行動が似ていても、同じ日は一日もなかった。一日一日を重ねて生きている」との記述に、日記はある意味、千早さんが生きてきた軌跡の記録であり、証明なのだと受け取った。

 それにしても、「日記に書くのは起きた事実のみ」という点には、少し意外だった。実は昔、日記をつけるのが学校で流行ったことがあって、カギ付き日記帳なんかを買ったことがあった。だが、すぐに書くことがなくなって、三日坊主に終わった。なので、日記というものは何か面白いことや、変わったことが無いと、つまらなくてとても書くにはなれなかった。そんな考えだから、こんなおばさんになるまで、日記とは無縁で生きて来た。千早さんのように、その日記が自分にとっての”人生の記録”になりうるだなんてことは考えも及ばなかった。そして、その記録は、これからを生きる上での勇気を奮い立たせてくれ、また生きる希望を与えてくれもするのだ。

 日記でふと頭に浮かんだのは、『ブックセラーズ・ダイアリー』という世界的ベストセラーになった本のことだ。なんだかとても面白そうだったので、買う気満々で都心の大型書店に出かけた。さすが、近所の使えない書店とは違って、ちゃんとその本は外国語文学のフロアーの新刊コーナーに直積みされていた。すぐに手に取って、読み始めたが、どうやら私が期待した内容には程遠いものだということに早々と気が付いてがっかりした。つまり、日記なのだから、言うまでもないが、日付と、雇っている従業員の行動やたまに店にやって来る取引先の誰彼についての、ほとんど起こった事実のみしか書かれていないのだ。日記の最後には必ず、来店した客の数とその日の売り上げが記されていて、その売り上げもほんのわずかだった。これで、一体全体どうやって店をやっていけるのかと首をかしげてしまった記憶がある。この本の面白さは、要するに、古書店の日常を何年にもわたって、几帳面に記録したことに他ならないのかもしれない。ただ、残念なことに、飽きっぽい性格の私は、読了するほどの忍耐強さを持ち合わせていない。

mikonacolon