人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

不便を受け入れる



完璧でなくてもいい、と思える生き方を

 以前、新聞の投稿で、今まで愛用していた器具や設備が故障しても、何とかうまく付き合っている人がいることを知り驚いた。その時の私は「そのくらい買えばいいのに」と言うのが正直な気持ちだった。例えば、自動で美味しいコーヒーを淹れてくれるはずのコーヒーメーカーが豆を挽いてくれる段階で、そのまま身動きしなくなったら、どうすればいいのだろう。普通は新しい物を買いに家電店に走るだろうと思っていたら、違った。その人は機械に挽いてもらった粉を自ら移し替えてお湯を注いでいた。今まで機械がやっていたことを手動でやることで、これくらい自分でやれば何の問題もないことを発見したのだ。もちろん、最初は面倒臭いと思いながら、嫌々やっていたのかもしれないが、人はそのうち慣れるものらしい。とりあえずの処置が以来ずうっと続いていて、気が付けば、もう買わなくていいかとなった。

 とかく、今の世の中は”便利”を極限まで追求する。何でも機械に頼って、何処までも果てしなく、人が本来持っている能力を後退させているようなものだ。使わなければ、その能力は消滅するのが物の道理で、家電なしでは生きていくこともままならない。子どもの頃、私の家には冷蔵庫というものがなかった。今では信じられないことだが、別にたいして、困ることもなかった。だいたいが、家の一軒隣には、村で唯一の何でも屋、つまり、八百屋であり、肉屋であり、ドラッグストアであり、金物屋である便利な店が存在していたからだ。ある意味、その店は我が家の冷蔵庫代わりのようなもので、夏などはアイスが食べたくなると、いつでも好きな時に買いに行っていた。

 家の畑から採ってきたスイカや、プリンスメロン、トマトは、冷蔵庫などなくても、冷たい井戸水で冷やせば十分美味しかった。それに、ときどき遊びに行っていた近所の友だちの家の冷蔵庫を開けたときの衝撃は忘れられない。なぜなら、冷蔵庫の中が綺麗すぎた。要するに、子供ながら、何か食べ物でも入っていやしないかと淡い期待を抱いて、扉を開けた。それなのに、前日のおかずの残りさえもない、全く何もないことに、幻滅した。たしかその家は夫婦共ども、働いていたはず、それなのにこの体たらくだった。その時子ども心に、この家の冷蔵庫は全く機能していない、お飾りのようなものだと呆れてしまった記憶がある。まさに、あの家の冷蔵庫は、ただの箱に過ぎなかった。冷蔵庫に対しての憧れはもちろんあったが、無くてもそれなりに日常が回っていたせいで、喉から手が出るほど欲しいと言う感情はなかった。

 さて、コーヒーメーカ―ならいざ知らず、風呂場の換気扇もなくても別に構わないが、ある日突然トイレの水がタンクに溜まらなくなったとしたら、どうするだろうか。私ならすぐに業者に電話をして、直してもらう。だが、当のその人は、トイレを使う度に自ら洗面器で水をためて使っている。俄かには信じられない話だが、最初は面倒だったが、何事も慣れとは恐ろしい?もので、そのうち何とも思わなくなったと言うのだ。トイレは一番重要な設備で、快適に越したことはないが、不便でも構わないと言う発想には仰天せざるを得ない。

 今朝新聞の投稿の中で、こんな言葉を見つけた。『家電なども、たとえどこかに不具合が生じても他の部分が健在であれば、ちょっと手間をかけさえすれば、当分は機嫌よく働いてくれることもあるのです』。どういう意味か分かるだろうか。つまり、60代後半のその人は自分の身体も、長く愛用してきた家電と同じ様なものではないかと捉えているのだ。『思えば、年を重ねるにつれ、自分の身体もあちこちに故障が出るようになってきました。治療しても、治るものならいいのですが、そうでない障りもあって、何とか折り合いをつけてやっていくほかないようです』と達観している。不便を受け入れ、それを楽しむくらいのつもりでやって行こうと言いたいのだ。

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