人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

トラブルの連続、それでも海外旅行は楽しい

最初から不安だったが、今回は想像を超えていた

 自分で言うのも何だが、今回の旅行は今までにない苦難の連続だった。苦難と一口に言っても、自分で好きで勝手にやっていることであって、「それなら行かなければよかったのでは・・・」などと言われてしまいそうだ。そもそも苦難に遭遇する原因を作ったのは、自分なのだから。そりゃ、もちろん、不可抗力の時もあったが、突き詰めて考えると、未知の場所に行かなければ避けられたことなのだ。正直言って、冷めた目で自分を見たら、どう考えても、「高いお金を払ってまでして、わざわざしなくてもいい苦労をしに来た人」に間違いなかった。そう考えて、我ながら驚いた。こんな考え方を、こんな身も蓋もない発想が浮かぶなんて、いやはや、なんか頭がおかしい。だが、そのくらい、海外旅行に行く意味を考えさせられた。

 私が愛読している日経の夕刊にエッセイストの岸本葉子さんがこう書いていた、「海外旅行に行くとなると、私がもらえることになっている年金をほとんどつぎ込むことになる」と。岸本さんの考えは、年金がぶっ飛ぶような旅行は行かなくてもいい、というより、体力が続かないし、それほど興味をそそられないと言うことらしい。要するに、価値観の問題で、年金全部を旅行の費用に使うのはどう考えても、もったいなくてできないのだ。したくないのが本音なのだ。まあ、そんなのはカラスの勝手で、本人の好きにすればいいだけのことだ。

 それはさておき、今回私がつくづく感じたのは、もはや何か確固たる目的でもなければ、行こうという強い気持ちは起きにくいのではないか。正直言って、私にたいして目的があったわけでもない。ただ、4年ぶりだから、行きたい気持ちが積もり積もっていただけのこと。以前にも書いたが、目的がなく、旅行そのものが目標になったようなものだった。そうなると、自分で組んだ旅行の日程を順番通りにこなすこと、それ自体がミッションだった。そんな漂流者みたいな気持ちの自分が、4年ぶりにコロナ禍を経験したヨーロッパに降り立ったらどうなるか。なんてことは考えも及ばなかった。今ならわかる、カルチャーショックを受けるのは必然だ。行く前に薄々は感じてはいたが、その違和感は想像を遥かに超えていて、呆然自失した。

 パリでの最初のホテルは普通のホテル2泊分もの料金だったので、よせばいいのに大いに期待してしまった。少しゆっくりして、フライトの疲れを癒そうとしたら、トイレの水漏れに遭遇した。湯沸かしポットも、コーヒーステイックも水のサービスも何もないのはまだ許せるとしても、トイレの水漏れのお守りをしなければならないとは!怒りを通り越して、笑うしかない。コロナ禍で客が来ないからそのままなのか、あるいはその客も面倒だから何とかやり過ごしたのか、そのどちらかだ。ここで私はこれまで持っていた固定観念を捨てた方がいいとさえ思う。つまり、料金の高いホテルはサービスもそれなりに充実している、なんていう勘違いをしてはいけないのだ。はっきりしていることは、ただ一つで部屋が広いこと、それだけは保証できる。そのほかは普通のところ(2万5千円くらい)とたいして変わりはしない。パリのホテルに何も期待してはいけないのだ。

 もう一つの苦難の原因は、身から出た錆で、自分自身にあることは確かだ。だが、どうやら長いこと「これから出会う人はみんないい人」がモットーの私は、呆れるほどに懲り懲りしない。そう言えば、5年前もスペインで、バスに乗れずタクシーでグラナダに行く羽目になった。当時の旅行ノートを見ると、「スペインはひどい」と書きなぐってあるのに、今回もまたスペインに行った。都合の悪いことはすっかり忘れている。これからの旅行は安易に決めるべきではなく、熟考に熟考を重ねるべきだと言いたいのに。どうしても感情が理性を押しのけて、制御不能になってしまう。さて、これからどうする?

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