人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

英作文の練習?

今週のお題「練習していること」

やるのが当たり前で、習慣のようなもの

 練習していること、と言われても、私には何もないなあと思っていた。それに、悲しいことに、練習してどうにかなったという成功体験などないので、余計に練習という言葉が空しく聞こえる。恥ずかしいことだが、子どもの頃は逆上がりもできなかったし、跳び箱も飛べなかった。皆ができることが自分にはできなくて、自己嫌悪の塊になった。私なりに練習はしたはずなのに、それでもできない。これも生まれもった能力で、努力では克服できるものではないのかと歎いてばかりいた。なので、私は、練習して何とかなるという常套句が綺麗ごとにしか思えなかった。

 それはさておき、よく考えてみると、私にも今練習していることはあった。自分ではそんな大それた意識はなかったが、昨年の海外旅行から帰って以来、続けていることがある。それは、NHKのラジオ英会話をテキストなしで聞き、ノートにディクテーションすることだ。実を言うと、もう何十年もNHKのラジオ英会話を聞いてはいるが、と言っても、途中嫌気がさして、すっ飛ばしていたこともある。テキストだけ買って、それでやってられないからとあさっての方を向き、なんとなく聞いたつもりになっていた。なぜサボりたくなるかというと、それは本人はやっているつもりなのに、全く進歩の芽さえも見えないからで、そうなると、冗談じゃない、やってられないとやけになるからである。ただ、当たり前のことだが、毎回ラジオを聞き流しているだけで、英会話ができるほど私の頭は優秀ではなかった。

 要するに、自分が面白いと感じる部分だけ、楽しんでその気になっていただけだった。それは講師の先生とパートナーとのオープニングでのやり取りが何だか楽しそうだから、自分もその仲間に入りたい、ぐらいの刹那的な思いつきでしかなかった。そうなると、言うまでもなく肝心の内容の方にはまったく熱が入らない。テキストを見ながら放送を聞くので、なんだか自分でも分かった気になっているだけだった。テキストというのは知識の宝庫だから、浅薄な私はついつい番組の内容を完璧に理解したなどと、とんでもない勘違いをしてしまっていた。わかったつもりになっても、すぐに夢は冷めて、自分の実力を思い知らされた。

 大体が私がNHKのラジオ英会話を聞くのは、海外旅行のためだったが、いつも旅行から帰って来るとピタリと聞かなくなった。あくまでも目的は旅行なので、日常生活で滅多に使う機会のない英会話はやっても仕方がないものだと考えていた。目標がないと燃えないタイプの私は、それが普通だと思っていた。そんな私が今は毎日のように、ラジオ英会話を聞いている。なぜなのか、それは純粋に楽しいから。今まで知らなかったことに、ええ!?そうだったの?ということに毎日出会えるからだ。よくもこんなことさえ知らなくて、今まで生きて来たなあ、今まで海外旅行に行けたなあと青天の霹靂で、穴があったら入りたいくらいだ。

 いつも思う、日本人はネイティブの気持ちを発想を何もわかってはいないのだということを。まずは、英文だけでなく、それがどんな状況の時に使われるかに注目すべきだと痛感する。今の私はラジオ英会話を聞いて、毎日が発見の日々ではあるが、かと言って旅行の予定があるわけでもない。正直言って、コロナ禍を経て、4年ぶりに行った海外旅行で、私は浦島太郎が玉手箱を開けたかのような体験をした。世界がもう以前のままではないことに激しく動揺した。私が愛してやまなかった楽園は消滅していた。もう私の行きたい場所はないので、旅行の計画が立てられない。

 それなのに、何処にも行きたくないのに、毎日NHKのラジオ英会話を聞くのはどうしてなのか。はっきりとしたことは自分でもわからないが、英語を日常のものにしたいからで、決して上達を狙っているわけでもない。番組の最後にある英作文のコーナーで3つくらい英文を作る。もちろん単語がわからなければ、辞書で調べたりして、類推したり、スペルを確かめたりする。そうやって、英語を頭の中に刷り込んでいく。いつの間にか毎日英文を作ることが習慣になった。上手くいかなくても気にしない。昔感じたような、何とかしなければという焦りは微塵もない。とても清々しくて心地いい。

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