人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

文章の書き方を学びたい

f:id:mikonacolon:20210327071746j:plain

まずは身近にあるお手本から学んで

 ある日朝の情報番組を見ていたら、近頃は書店で日記が売れているらしいとアナウンサーが様々な日記帳を紹介していました。このコロナ禍にあって、時間がぽっかり空いた人達が今の異常な事態を記憶に残そうとしているのだとか。だからと言って、なぜ日記なのか、どうして文章を書く気なるのかが私にはわからないのです。でも以前何かの本で、自分の心模様を書き出して整理すると、ストレス解消になって鬱の予防にもなると聞いたことがあります。なるほど、今まで外に向いていた関心を、一転して自分の中に向けてみるという試みなのかもしれません。さて、そうは言っても、どうやって書いたらいいかわかりません。それにどこにも出かけないのに、大した変化がない生活なのに、いったい何を書けばいいのか。誰か書き方を教えてくれないだろうか、かと言って自分の身近に文章の専門家などいないし、などと困り果てていました。そしたら、そんな人にピッタリの記事を新聞で見つけました。

 それは『誰にでもできる文章の書き方』で芥川賞作家の村田喜代子さんが、普通の人でも無理なく書ける方法を教えてくださるのです。村田さんによると、文章をスラスラ書くことは難しいし、効果的な方法は見当たらない。でも、普段家族や友達に話をしているかのように、自然体で話しかけるように書いてみると割と書けることが多いと思う。そして、忘れてはならないことは、必ず自分らしさを文章に入れること。つまり自分だけしかできないキラッと光る表現を言葉にする。あまり奇抜なことばかり書くと他人に理解されないので、一つくらいでいいから自分の個性を出すようにしたらいい、と初心者でもわかるように丁寧に説明してくださるので、とても参考になったのです。昔村田さんの小説『鍋の中』を読んだことがあったのですが、正直言って何が何だかわからない奇妙な小説だったことしか覚えていません。でも凡人などには理解できないような物の見方、つまり、ありえないような捉え方をとても魅力的に感じたことは言うまでもありません。だから、芥川賞に値するのです。それに村田さんは輝かしいばかりの数々の文学賞の受賞歴の持ち主なのです。そんな非凡な作家が凡人の私たちに貴重なアドバイスをしてくださったこと、そのこと自体とても幸運な機会でした。

 今の私がお手本にするのは、芥川賞の候補作『母影』の著者の尾崎世界観さんです。尾崎さんとの初めての出会いは日本経済新聞の夕刊の「プロムナード」というエッセイでした。尾崎さんは木曜日の担当で、彼が何者なのか全く知らないまま、文章を読んでみると、「何これ、好き勝手に書いているね」が正直な感想でした。ところが回を重ねるうちに、思うままに、自分の感情に突き動かされるままに書いているのではないのだとわかってきたのです。つまり、「びっくりした」とか「驚いた」とか「がっかりした」とかのストレートな表現が文章の中にほとんど見当たらないことに気づいたのです。そう言った自分の想いは文章の中に隠し、読み手が感じるのに任せているのです。例えば、ある日の話題は彼の青春時代の女神の広末涼子さんについてでした。あまり興味がない人にとってはどうでもいいと思うようなことなのですが、なのに、不思議です。1400字ほどの文章に彼女に対する愛をこれでもかと叫んでいるのにしつこくない。読んでいるうちに尾崎さんの彼女に対するどうしようもなく切ない気持ちが伝わってきます。こんな気持ちが懐かしい。誰にでも覚えがあるはずです、遠い星を見つめて憧れる、でも手が届くことはないのですが。

 また、別の日は中学生なのに、東京から夜行バスでなんと鳥取砂丘まで友達と遠出した話でした。10代の少年にとってその場所は生涯の思い出の地となるはずでした。それなのに実際に行ってみたら、どこかで嗅いだことがある生き物の匂いと砂の中にある無数のテントウムシを発見したのです。この匂いは確か近所にあった養豚場の匂いに似ていると気が付いた途端、目の前にラクダの影がちらつきました。となると、砂に埋まっているのは排泄物に間違いないと現実を知らされたのです。中学3年生の思い出にと胸をときめかせて旅にでた結果がこの体たらく、それでも「がっかりしました」とは一言も書かれてはいません。なのに読み手にはその時の落胆ぶりが手に取るようにわかるのですから、これはもう脱帽するしかないのです。

mikonacolon

 

 

 

 

昔習っていた琴を再開したい

f:id:mikonacolon:20210324203013j:plain

まずは自分にできることから始めたい

 昔見た映画の中で、死刑囚が最後の晩餐は何がいいのか聞かれる場面がありました。死刑囚が戸惑っていると、看守は「何でもいいぞ、何でも好きな物を食べさせてやるから」と明るく言うのです。死刑囚の追い詰められた複雑な気持ちを思うと、いくらなんでも食べ物が喉を通るのだろうかと疑問に思ったことがあります。一方、以前本で読んだイタリアにバイオリン作りを学ぶために留学した青年は、「最後は自分の作ったバイオリンの音を聞きながら逝きたい」と願うのです。彼にとっての最後の晩餐は食べ物ではなく、音楽、それも自分の分身ともいうべきバイオリンが奏でる調べなのです。だんだんと意識が遠のいていくなかで、静かにこの世を去れたら本望だと言いたいのです。彼が病気であとわずかの命と言うわけではないのです、つまりそれくらいに思うほど、自分の仕事に情熱を注いでいるわけです。読んでいるこちらが羨ましくなってしまうほどの充実感で満たされた彼。そうか、音楽はそれほどいいのか、人間を幸せにしてくれるものなのかとある種の感動を覚えたものです。

 若い頃はいつもお気に入りの歌手の音楽をBGMにしていたし、生活の中に音楽もありました。よく利用していた郵便局にもFM放送が流れていて、待ち時間が楽しかった。なのに今の私の生活には気づいたら音楽がない、町中にも音楽がどこにもない。1年で最大のイベントであるクリスマスの時期さえジングルベルはもう聞こえてこないのです。馴染みのスーパーにだって音楽が流れていたし、通っていた歯科医院にだって有線で流行りの曲が流れていたはずなのに。いつの間にか、音楽が消えたことにさえ気づかないで、暮らしていたわけです。なぜなら別に気にするべき重要事項ではなかったからで、生活の安定あってこその音楽だったからです。それなのに、新聞を開けば、幸か不幸か新聞を3紙取っているので、ピアノとかバイオリンとかの有名な音楽家のコンサートの宣伝が載っています。特にクラシックの音楽ファンでもないのになぜか心を乱されてしまうのです。もしこんな素晴らしい音楽を聞いたなら、少しは世界が変わるように感じるのではないか、などと妄想を抱いてしまったりして。つまり、自分には高尚な音楽はわかるはずがないと思いながらも、心のどこかに憧れというか羨望の念を隠していたのです。

 ピアノとかバイオリンとか弾けたらいいなあと頭で思うだけで、実際には行動に移すことはありませんでした。でも若い頃は琴を習っていて、あれにはたちまち熱中してしまいました。練習すればするほど、すぐに目に見えるような結果が出るので面白かったのです。琴との出会いは偶然で、住んでいた町を散歩していて、ふと見たら「生田流筝曲教室」の看板が普通の家の玄関に掛かっていました。どうしてかわからないのですが、「これだ」と思って、チャイムを押したら、花のようなたたずまいの美女が現れました。この女性が琴の先生で第一印象は美人、それも優しくて気さくで、私に安心感を与えてくれる人でした。先生はすでに男の子二人の母親でしたが、とてもそうは見えなくておしとやかでした。でもある時先生の意外な一面を知ってしまう出来事がありました。それはいつものように稽古をしていたら、先生の上のお子さんがちょっかいを出しに部屋に入ってきたのです。5歳くらいでやんちゃざかりなので、「ダメよ」と言ってもいうことを聞きません。部屋には来ないように言い聞かせているので、こんなことは初めてのことでした。優しい「ダメよ」が2,3回繰り返されたのですが、それでもやめようとしません。そしたら、あろうことか先生がその子の頬っぺたをピシャッとたたいたのです。母親に叩かれた子供は「ウワ~ン」と大声をあげて部屋から退散しました。予想もしなかった行動に呆然としている私に、先生は「ごめんなさいね」と苦笑しました。でもそれも一瞬のことで、すぐに普段の優雅な先生に戻って稽古は続いたのです、先ほどのことなど何もなかったかのように。

 久しぶりに懐かしい思い出が蘇って来たので、また琴をやってみてもいいかなとも思うのです。私にとって一番身近で、ピアノやバイオリンよりはるかに取り組みやすい楽器だからです。そう言えば、クリスチャンだった友達に頼まれて、教会のクリスマス会に琴の演奏をしたこともありました。人前で演奏することに躊躇せずに二つ返事で引き受けました。今から思うと、なんて怖いもの知らずだったのかと呆れてしまいます。

mikonacolon

 




フランス語の勉強を忘れていたわけは

f:id:mikonacolon:20210324202625j:plain

言葉を学ぶのに必要なのはモチベーションなのに

 ふと気が付いたら、最近はラジオのフランス語講座の放送を聞くこともなかったし、テキストを開くことすらしませんでした。あんなに好きだったフランス語、憧れだったフランス語の独特の響き、それなのになぜ今の自分にはその気配も感じられないのか。この質問には即答できます。なぜなら、突然に目的を見失ったからです。何かを学ぶためには目的が必要で、そのために自分なりの目標を見つけようとします。その目標を達成するためにふつふつと沸き上がってくるのがやる気です。モチベーションともいわれますが、私などは、「燃える」自分を意識して、自己満足の塊になってしまいます。

 そんな自分のやる気を引き出してくれるのは、フランス、特にパリへの旅行計画で、それと並行してフランス語の勉強を開始するのです。いつか行くときのために語学を勉強するのは、私の経験から言うと弱すぎるし、やる気が続かないのです。未来に確実に起こる場面を想像し、勝手に妄想もして楽しむからこそ、勉強は続けられるのです。いい加減で三日坊主の、飽きっぽい私ですら、真剣にさせてしまうのが、差し迫った”その時”なのです。現地の言葉で話すことがいかに大切か、たとえ相手の言葉が聞き取れなくても、何かの役に立つのを身をもって経験しことがあるからです。つまり現地に行って、「やっておけばよかった」と後悔しないためでもあるのです。見知らぬ場所に出かける旅の不安をできる限り少なくする上で不可欠なことです。不安を和らげるための緩衝材としてもフランス語は私を守ってくれました。

 ところが、人生における想定外の出来事が起きて、旅に出かけることが困難になりました。最初のうちはあり得ないことだとばかり思っていたので、長くは続かないだろうと簡単に考えていました。それなのにあれから1年以上たった今も終息の兆しが見えない。先の見通しが立たないのに、どうして旅行計画が立てられるのでしょう。ゲーム感覚でやってみたらどうか、まさにそれこそ本物の”机上の空論”で虚しいだけです。あの頃私は宿泊予約でbooking.com というサイトをよく利用していたのですが、最後の予約の時にふと思ったのです、この会社はどれだけ儲けているのだろうかと。オランダに本社があるこの有名な会社はこれからも世界中の人たちに利用されて発展していくに違いないと。でも実際にはコロナウイルスによる感染症の流行の前ではなす術はないようです。驕れるもの久しからずなのか、それとも予想に反して活路は見いだせるのか。

 話を元に戻すと、私の場合、フランス語の勉強は旅行とセットだからこそ続けられたのです。逆に言うと、旅行が消えた今となってはフランス語の勉強は必要ないもの、つまり、不要不急の物となり果ててしまったのです。しかし、これまでのフランス語に費やした膨大な時間と労力をどうしてくれるのか、そんな悔しすぎる思いがじわじわとこみ上げてきた。あの日々を忘れたら、過去を初めから無かったものとして無視したら悲しすぎるし、もったいないと思えてきた。だから、「あとで」ではなく「今でしょう」と考え直して行動した。埃をかぶったフランス語のテキストと会話練習本を取りだして、机の上の目につく場所に置いてみた。

 テキストをペラペラと捲ったら、鉛筆での書き込みや蛍光ペンの線が目について、頑張ってる感が満載だった。会話本の方は日付が書かれていて、期限を決めて計画的にやっていたらしく、最後のレッスンは1カ月後の日付で終わっていた。わずか2年前の出来事なのに全く覚えていないし、大した感慨もない。でも今日からでも、明日からでも、始めれば楽しいに違いないし、またフランス語への情熱を取り戻せる自信はある。だから、旅行というご褒美が無くてもフランス語の世界に入っていけるのです。それに背中を押してくれるある変化が私の中に芽生えたのです。それは幸か不幸か動画サービスで見ていた中国ドラマがどれもつまらなく思えてきたことです。どうしても感情移入ができず、「なんでこれを見てるのだろう?」などと自問自答する始末です。不意にぽっかりと空いた穴を埋めるのには何かに熱中するのが一番でしょう。そこでフランス語の出番がやってきたのですから、なんとも幸運なことです。

mikonacolon

 

 

 

日常の感動を俳句で表現したい

f:id:mikonacolon:20210324202357j:plain

「俳句は自由でいいんだ」と教えてくれたのは

 私は最近ふと思うのです、日常生活の中の感動を一瞬で言葉にできたら面白いのにと。感動と言っても、何も大それたことではなく、ちょっとした驚き、気づき、戸惑いなどで構わないのです。他人に話したら「それがどうしたの?」と呆れられることでもいいのです。何より自分がそう感じたらいい、素直に感じたまま五七五の17文字で表現できたら気持ちがいいだろうなあと想像してみるのです。今のところは俳句などという立派なものではないし、人に聞かせられるものでもありません。すれ違う人にわからないようにそっと小声でつぶやいてみるだけです。まずは17文字で言葉にしてみる、最初は目の前にある光景を見たまま言葉にするだけ、深い意味など含ませられるわけもないのです。今朝思いがけなく、たぶん卒業式なのでしょう、袴姿の女性を3人も見かけてました。舞い上がった私は思わず、美しい着物に遭遇した感動をそのまま、なんの変哲もない言葉で切り取ってみました。

 実は若い頃、句会を主宰している方と知り合いになって、やってみるように言われたのですが断りました。なぜなら、当時の私は俳句と言えば、芭蕉正岡子規などいう高尚な俳人を思い浮かべ、難しそうで、とても自分にはできそうもないと敬遠していたのです。考えてみれば、俳句は凝縮の文学で、わずか17文字から様々な情報が読み取れます。その句の上っ面だけ見ていてはだめで、その言葉に込められた状況や想いが理解できなければなりません。新聞の俳壇では一般の方からの投稿が載っていますが、その句を見ただけではさっぱり何を言っているのかわからない句も多々あります。解説を読んで「そうだったのか」と目から鱗で、自分の思慮のなさに落胆することもしばしばでです。

 そんな私の楽しみは俳壇の中から自分でも容易にわかる、あるいは共感できる句を見つけることです。例えば、ぷう~んと良い香りがしてくるのは大阪府の松岡広行さんの『デコポンと睨めっこする早起きは』で、選者評は「いいなあ、こんな起き方!」でした。柑橘の甘い匂いが寝室に漂い、まるで目覚まし時計のように人の鼻をくすぐり、気になって自然と起きてしまう。そんな幸福な朝があったなんて初めて知りました。ではこの句の作者はどんな人なのか、こんな瑞々しい感性の持ち主は何者と思ったら、なんと86歳の男性でした。素晴らしいです、お年を召しても感性は少年のままなのです。

 また、ある時はこんな物の捉え方、表現方法もあるのかと衝撃を受けてしまう句もあります。家の庭や近所にある木のほとんどが葉を落として、何か殺風景で物足りなく思っていました。そんな時、東京都の田村忠美さんの『裸木の腹筋胸筋光る朝』には仰天しました。気付きませんでした、全く考えもしませんでした、木にも筋肉があったなんて。『腹筋胸筋』という発想に脱帽し、表現の仕方は自由でいいし、無限大なのだと嬉しくなったのです。

 実を言うと、数年前に俳句というものの固定観念が覆るような体験をしました。それは新聞の「読書日記」に綴られていたある女性俳人のエッセイでした。聞いたことがない名前のその人は南フランスのニースに住み、毎日海岸を散歩するのを日課としていた。学生時代に二度も大病をして、その時に看病してくれ面倒を見てくれた男性がいて、いつしか自分の人生における伴侶になった。子供の頃から詩が大好きで、心の支えであり、毎晩眠るときは必ず詩を口ずさんだ。家には他に本と呼べるものがなかったので詩集を読むようになった。ある日いつものように海岸で詩を口ずさんでいたら、初老の男性が近づいてきて、「あなたの姿はまるで、映画の『華氏451度』のラストシーンのようだ」と言われてしまった。

 こんな風に謎めいたことを書かれると、どうしても気になってネットで検索してしまいました。それで、彼女が当時最も注目されている気鋭の俳人だとわかり、その人の俳句を見たら、「これが俳句なの?こんな自由でいいんだ!」と頭の中の俳句のイメージはズタズタに切り裂かれました。「こんなのありなの!」としか思えない、でも今にも音楽が聞こえてきそうな、耳に心地よく感じられる俳句。こういった俳句を自由律俳句というのだそうですが、古い俳句の概念を覆した斬新な試みでした。残念ながら、当時検索した時の俳句はもうすっかり忘れてしまいました。それで最後に、最近のネットの記事に載っていた句をあげておきます。『ぷろぺらのぷるんぷるんと春の宵』。どうですか、真似をしてみたいけど、すぐに無理だとわかる魅力的な俳句です。

mikonacolon

 

 



 

 

スペイン語を再開する日がわからなくても

f:id:mikonacolon:20210322162552j:plain

スペイン語との出会いは偶然に

 私とスペイン語との出会いは、全くの偶然で予期せぬものでした。当時は英語とフランス語にしか興味はありませんでした。だからスペイン語なんて眼中になかったわけなのですが、以前フランスとスペインの国境にあるコリウールという港町に行ったときにスペイン人を見かけることがありました。ホテルのプールで泳いでいた彼らは明らかにフランス人とは違った体格をしていました。フランス各地を1か月ほど廻りましたが、みんな痩せていて太った人は見かけませんでした。それなのに彼らは丸々と太り、健康的で精気に満ちていました。とくに女性については、フランス人は痩せていてスマートですが、食生活が貧しいのが手に取るように伝わってくるのです。食事がシンプルとは聞こえがいい言葉ですが、もっと食べたいというやせ我慢的な気持ちがどこかにあるのではと疑ってしまいます。一方、彼らスペイン人は体重など気にすることなく、堂々としているし、美味しいものをいっぱい食べているのではないか。それに物価はスペインの方が安いのだからなどと勝手に想像したりもしました。当時の私はこれくらいしかスペインについては感想を持っていなかったのです。

 さて、何年も過ぎたある日、会社の先輩がスペインに旅行に行ってきたのだと、お土産を配っていました。それで何気なく聞いてみたのです、「スペインは何が美味しいのですか?」その時返ってきたのは、「あそこは何も美味しいものはなかったのよ」との意外な言葉でした。その一言にがっかりした私は内心そんなわけはないと思ったものの、”百聞は一見に如かず”です。一度も現地に行ったことがない自分が反論できるわけもありません。今から思うと、あの時の違和感が忘れられずに、いつもそれを引きずっていました。だからふと思いついて、ネットで「スペイン、美味しいもの」で検索してみました。そしたら、スペインにはタパスという美味しいものがあることを知りました。有名なのは美食の町として知られるサンセバスティアンで、そこではタパスがピンチョスと呼ばれています。サイトをさらに閲覧してみると、食欲をそそられる写真のオンパレードです。「これは是非とも行かなきゃ」と早速旅行計画を立てることにしました。でも実際に出発するのは6カ月先です。なぜなら言葉の問題があるからです。まあ、英語で何とかなるのですが、”郷に入っては郷に従え”で現地の人には通じないことが多いのです。それに外国語の勉強は目標があるからこそ集中できて楽しいのです。

 考えてみると、先輩から聞いたことが勘違いだと証明するためにスペインに行ったようなものです。でもいきなりスペインに行くようなことはせずに、フランスのモンパルナス駅からTGVに乗り、ついでにサンセバスティアンに立ち寄るようにしました。パリの物価高に嫌気がさして欲求不満になっていた私は、美食の町の安くて美味しいピンチョスに感動したのです。精神的に疲れ切った私を癒してくれたのは、生ビールと鱈やツナサラダを詰め込んだ赤ピーマンのピンチョス。その後、近隣のビルバオバルセロナにも足を延ばして、その結果、「スペインは美味しい。いいえ、どこよりも美味しい!」とさえ思うようになりました。

 スペイン語は私に美味しい物との出会いを与えてくれ、想定外のトラブルの時も役立ってくれました。例えば、あちらの鉄道の工事は予定通りに進まないことが多くて、現地に行かないと交通事情は分かりません。運悪く、目的地に行こうとして列車が運行していない場面に遭遇してしまいました。困り果てていると、ひとりのタクシー運転手が声をかけてきました。彼は英語は話せないらしく、交渉はすべてスペイン語でしなければなりません。そんな時は思ってもみない力が出て、不思議なほどスペイン語がスラスラと口から出てきます。と言うより、必死でこの状況を乗り切ろうと無い知恵を振り絞っているだけなのです。意外に基本の会話文が役に立つのだとわかって目から鱗でした。ちょうどその日は日曜日でタクシー料金が割高なせいか、運転手は嬉しくて私に握手を求めてくるのです。でもこちらはカードの支払いのことが頭に浮かんで、呆然としたまま心では泣いているのです。彼の喜びに溢れた顔をまともに見たくなくて、握手を拒んでいると、相手は無理やり手を取ってくるので諦めました。

 今の私は少しスペイン語とは疎遠になっているのですが、だからと言って忘れたわけではありません。机の傍らにはNHKのスペイン語のテキストを置いて、いつでも開けるようにしているのです。絶対にまたスペイン語を再開できる日が来ることを願って。つまり、その日は安心して旅行に行こうと計画を立てられるようになる日です。

mikonacolon

 

 

 

これからも中国語を学び続けたい

f:id:mikonacolon:20210322162458j:plain

中国語を勉強する機会は突然に

 あれは兄の葬式が終わって、貸し切りのマイクロバスに乗り込んだ時でした。「これからは私たち残されたもの同士で仲よくやらなくちゃ」と一番上の姉が言いました。それから続けて「みんなでどこか旅行にでも行こう」と提案したのです。姉が行きたい所は浜松で、どうやら最近始めた俳句をそこで作りたいという考えらしいのです。私は最初、「浜松って何があるの?」と全然乗り気ではなかったのですが、断るのも悪いと思ってしぶしぶ行くことにしました。と言っても、新幹線の切符の手配も泊まる宿を決めるのもすべて一番若い私の役目なのでした。不幸にも大役を仰せつかったものの、準備を進めるうちにだんだんとやる気になり、この旅行をなんとしても心に残る最高の物にしようという気持ちが湧いてきました。格安でホテルのスイートルームに泊まるプランをネットで見つけたときは、「これだ!」と確信しました。予想通り姉も二番目の姉もみんな大満足で、「こんなにゆっくりできるなんて夢みたい!」とか「普通の部屋だったらみんなで座る場所なんてないわよ」と嬉しいことを言ってくれました。私は無事役目を果たして、これでお役御免となるはずでした。それなのに、姉の口からは「ねえ、今度は台湾に行かない?」などという信じられない言葉。仕方がありません、それから私の台湾研究の日々が始まりました。

 まず、本屋に行ってガイドブックの棚を捜して、一番役に立ちそうな「地球の歩き方台北版」を買ってきました。それと同時に先立つものはやはり言葉なので、NHKラジオ講座で中国語を勉強しようとテキストとCDも買いました。確か姉から旅行したいと言われたのは、11月の終わりで浜松旅行の最終日の新幹線の車中でした。だから、今からだと途中で、普通、語学講座は10月から始まるので、その分を聞き逃しているからでした。実を言うと、昔少しかじったことはことはあったのですが、四声という特殊な発声方法に恐れをなして逃げた経験があるのです。中国語ではやはり四声が発音の基本中の基本です。でも身体で覚えるのは簡単ではありません。その頃はまずは基本をみっちりとやらなきゃと思い込んでいたので、いつまでたっても前には進めないのです。その結果、半年も経つと「自分には無理なのだ」と放り出して、それ以来忘れていたのです。

 そんな私が幸か不幸か姉の気まぐれなひとことで、中国語に再会することになりました。正直言って、私はヨーロッパが大好きで、自分と同じアジアの国には全く興味がありませんでした。必要に迫られて勉強し始めると、やはり最初の関門である四声の壁が立ちはだかりました。当然うまく発音できないし、聞き取ることもできません。でもここで終わるわけにはいかないので、無視して先を急ぎました。すると、信じられないことに緑の原っぱが見えた気がして、意外に中国語は面白いという気持ちが湧いてきたのです。誰しも完璧を目指したいのは当たり前です。でもそんな高い山を目指したら、苦しくて堪りません。もう薄々わかっているのです、それができるのは”一を聞いて十を知る”ことができる人だけなのだということを。私には記憶力なんて皆無だし、見果てぬ夢だということはわかっている。覚える先から忘れて行くので自分が嫌になることもある。でもそんなダメな自分を受け入れることにしたのです。つまり中国語の知識がゼロよりは一の方がましだということです。ゼロよりは多いほうがずうっといいし、また楽しいのです。

 中国語の勉強が一番楽しかったのは、姉と台北旅行に行くまでの6カ月間でした。目標がハッキリしているせいか、目の前にぶら下がっているニンジンに釣られる馬のように熱中しました。そのおかげで中国語が外から見ているほど難解な言語ではなく、たとえ発音が上手くできなくても、漢字さえわかれば筆談だって可能なのだとわかったのです。だから悲観することなく、淡々と勉強を続ければ役に立つのです。実際に旅行に行って道を尋ねようとすると、それを手で遮って、スマホを差し出す人がいることも事実です。こちらが付け焼刃の拙い中国語を使おうとするのを拒むのですが、まだまだそんな人は稀なのです。台北は親切な人が多いせいか、大抵の人は私の中国語にちゃんと耳を傾けてくれました。だから中国語を思いついた時だけ、気の向いた時だけやる気になる、不真面目な視聴者である私のような存在もあっていいのです。決して無意味なことではないと思うのです。

 いずれにせよ、私は姉のふとした思いつきから中国語の世界に迷い込んでしまいました。最初は嫌々でしたが、中国語は奥が深いし、難しいけど面白いと思えるようにまでなりました。このことに関しては、本人には面と向かっては言えませんが、姉に感謝したいと思います。

mikonacolon

 

 

 

 

 

寝坊したと思ったら祝日だった

今週のお題「祝日なのに……」

f:id:mikonacolon:20210322075513j:plain

 普通に登校しようとしたら親に止められた私

 祝日なのに登校してしまった経験は私の人生にはないのですが、危うくやらかしてしまいそうになったことはあります。翌日が祝日で学校が休みとなれば、帰りの会で先生から言われるだろうし、子供なら得した気分になるので絶対忘れないはずです。明日は早く起きなくてもいいから、寝床の中でうとうとできる。朝寝坊しても親に怒られることもない。それに日曜日じゃないからお気に入りのアニメもドラマもやっていないので早く起きる必要もなかった。それなのに、あの朝布団の中で目を覚ました私は、部屋の時計を見て仰天したのです。寝ぼけ眼で見たら信じられないことに時計の針は8時を指していました。いつも7時半に村の子供は集まって、小学校に集団登校することになっていました。なのに8時だなんて、どうしよう!完全なる遅刻だ。先生に怒られて、少しの間バツとして立たされる自分の姿が浮かんできました。

 それにしても、なぜ今日に限っていつもの時間に起こしてくれなかったのだろうと母を恨んだ。とまあ、あの時に感じたであろう気持ちを書いてみましたが、実際は時計を見た瞬間、とにかく着替えて急がなきゃと行動に移したはずです。手早く身支度をし、ランドセルを背負って玄関に行こうとしたら、後ろから「あんたは何やってるの?今日は祝日で学校は休みでしょう」という母の呆れる声が聞こえてきました。それを聞いた途端、ホッとしたと同時に「やったあ!」という思いがけない幸運を手にしたかのような喜びでいっぱいになりました。ただ、もっと早く教えてくれれば朝寝坊を満喫できたのにという残念な気持ちもあったはず。祝日なのにドキドキしてしまって、それも楽しいのではなくてできれば経験したくないような、冷や汗ものの勘違いをしてしまった。なんか、どう考えても損をした気分になった、せっかくの貴重な祝日なのに。

 集団登校で思い出すのは、ちょうど今頃の季節は学校に行く道すがら目にしていた様々な花々のこと。花といっても桜ではなく、田んぼ一面に咲くレンゲソウシロツメクサや菜の花の繚乱を何の変哲もないものとしか思えなかった。今でこそ綺麗とか可愛いとか目の保養になると感じられるのですが、当時はそんな気持ちは一切なかったのですから不思議なものです。たぶん自分にとってそこにあって当たり前の光景の美しさに気づかなかっただけなのです。

 幸運にも寝坊しても祝日なのでセーフだったわけですが、当時の私のクラスにはひとり羨ましい子がいたのです。その女の子は小学校の裏にある狭い道路を隔てた一軒家に住んでいました。だから家から学校まで歩いて30分はかかる私とは違って、5分もあれば余裕で来られるのです。毎朝私たちが教室でひと息着いていると、始業のベルが鳴ると同時に教室に入ってきました。当時は羨望の念しかなかったのですが、大人になるにつれて、家が学校に近過ぎることは、精神衛生上様々な問題をはらんでいるのだと知りました。例えば、学校ではいろんな体験をするのですが、それが楽しいものだとばかりとは限りません。嫌なことがあったときに、家に帰っても目の前に学校がある環境だとしたら、これは相当辛いのではと想像できます。つまり嫌なことがあっても、家に帰るまでの30分のうちに気分転換できて、家に着くころには忘れた気になっていたわけなのです。明日になればなったでまた思いだすのですが、しばしの間は気を紛らわす、そうやって当時はやり過ごしていたことをこのブログを書きながら懐かしく思いだしました。

mikonacolon