人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

昔習っていた琴を再開したい

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まずは自分にできることから始めたい

 昔見た映画の中で、死刑囚が最後の晩餐は何がいいのか聞かれる場面がありました。死刑囚が戸惑っていると、看守は「何でもいいぞ、何でも好きな物を食べさせてやるから」と明るく言うのです。死刑囚の追い詰められた複雑な気持ちを思うと、いくらなんでも食べ物が喉を通るのだろうかと疑問に思ったことがあります。一方、以前本で読んだイタリアにバイオリン作りを学ぶために留学した青年は、「最後は自分の作ったバイオリンの音を聞きながら逝きたい」と願うのです。彼にとっての最後の晩餐は食べ物ではなく、音楽、それも自分の分身ともいうべきバイオリンが奏でる調べなのです。だんだんと意識が遠のいていくなかで、静かにこの世を去れたら本望だと言いたいのです。彼が病気であとわずかの命と言うわけではないのです、つまりそれくらいに思うほど、自分の仕事に情熱を注いでいるわけです。読んでいるこちらが羨ましくなってしまうほどの充実感で満たされた彼。そうか、音楽はそれほどいいのか、人間を幸せにしてくれるものなのかとある種の感動を覚えたものです。

 若い頃はいつもお気に入りの歌手の音楽をBGMにしていたし、生活の中に音楽もありました。よく利用していた郵便局にもFM放送が流れていて、待ち時間が楽しかった。なのに今の私の生活には気づいたら音楽がない、町中にも音楽がどこにもない。1年で最大のイベントであるクリスマスの時期さえジングルベルはもう聞こえてこないのです。馴染みのスーパーにだって音楽が流れていたし、通っていた歯科医院にだって有線で流行りの曲が流れていたはずなのに。いつの間にか、音楽が消えたことにさえ気づかないで、暮らしていたわけです。なぜなら別に気にするべき重要事項ではなかったからで、生活の安定あってこその音楽だったからです。それなのに、新聞を開けば、幸か不幸か新聞を3紙取っているので、ピアノとかバイオリンとかの有名な音楽家のコンサートの宣伝が載っています。特にクラシックの音楽ファンでもないのになぜか心を乱されてしまうのです。もしこんな素晴らしい音楽を聞いたなら、少しは世界が変わるように感じるのではないか、などと妄想を抱いてしまったりして。つまり、自分には高尚な音楽はわかるはずがないと思いながらも、心のどこかに憧れというか羨望の念を隠していたのです。

 ピアノとかバイオリンとか弾けたらいいなあと頭で思うだけで、実際には行動に移すことはありませんでした。でも若い頃は琴を習っていて、あれにはたちまち熱中してしまいました。練習すればするほど、すぐに目に見えるような結果が出るので面白かったのです。琴との出会いは偶然で、住んでいた町を散歩していて、ふと見たら「生田流筝曲教室」の看板が普通の家の玄関に掛かっていました。どうしてかわからないのですが、「これだ」と思って、チャイムを押したら、花のようなたたずまいの美女が現れました。この女性が琴の先生で第一印象は美人、それも優しくて気さくで、私に安心感を与えてくれる人でした。先生はすでに男の子二人の母親でしたが、とてもそうは見えなくておしとやかでした。でもある時先生の意外な一面を知ってしまう出来事がありました。それはいつものように稽古をしていたら、先生の上のお子さんがちょっかいを出しに部屋に入ってきたのです。5歳くらいでやんちゃざかりなので、「ダメよ」と言ってもいうことを聞きません。部屋には来ないように言い聞かせているので、こんなことは初めてのことでした。優しい「ダメよ」が2,3回繰り返されたのですが、それでもやめようとしません。そしたら、あろうことか先生がその子の頬っぺたをピシャッとたたいたのです。母親に叩かれた子供は「ウワ~ン」と大声をあげて部屋から退散しました。予想もしなかった行動に呆然としている私に、先生は「ごめんなさいね」と苦笑しました。でもそれも一瞬のことで、すぐに普段の優雅な先生に戻って稽古は続いたのです、先ほどのことなど何もなかったかのように。

 久しぶりに懐かしい思い出が蘇って来たので、また琴をやってみてもいいかなとも思うのです。私にとって一番身近で、ピアノやバイオリンよりはるかに取り組みやすい楽器だからです。そう言えば、クリスチャンだった友達に頼まれて、教会のクリスマス会に琴の演奏をしたこともありました。人前で演奏することに躊躇せずに二つ返事で引き受けました。今から思うと、なんて怖いもの知らずだったのかと呆れてしまいます。

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