人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

巣から追い出されたような悲しい気持ち?

夜は、特に深夜は名作が生まれるのだろうか

 「生きていてもっとも心許ないのは、仕事をするために夜中に起きて布団から出なければいけない時だ」と作家の津村記久子さんはエッセイに書いている。だが、津村さんの生活をよく知らない私は、なぜわざわざそうまでして、そんな夜中に起きなければならないのか、さっぱりわけがわからなくて戸惑うだけだ。要するに、夜中に起きる必要があるから、そしてそうやって仕事をする生活を今までずうっと続けてきて、もう習慣になっていると言うことだけは想像がつく。おそらく、津村さんにとって小説を執筆するベストな時間帯、もっとも筆が進んで高揚感に達する時間が夜中なのだろう。今年の冬は特に寒さが厳しかったせいで、余計に辛さの度合いが増していることだけは確かなようだ。

 津村さんと比較するのはおこがましいが、私も昔は世の中の人が寝静まって静寂が訪れる深夜が大好きだった。頭の中が澄み渡って、本を読んだり、物事を考えるのには最高の時間だ。昼間のように生活音に邪魔されていては、さっぱり落ち着かず、何かを考えるような状況ではありえない。作家の五木寛之さんの言葉に『昼は行動の時間、夜は思索の時間』という名言があるが、まさにその通りだ。人々が眠りにつく夜の9時頃から夜中の2,3時頃まではゴールデンタイムと言うべき至福の時間だった。ただ、残念なのは、調子に乗ってそのまま朝まで起きていると、翌日に代償を払うことになってしまうことだ。なぜそんな生活になったかと言うと、家に帰ると疲れて寝てしまうからで、もちろん朝まで熟睡というわけにはいかず、途中で必ず起きる。となるともう眼が冴えて眠れないので、このチャンスを見逃すはずもなく、目の前にある夜の静寂をとことん味わおうとした。ラジオの深夜放送を聞きながら勉強をした、というより勉強なんてただのポーズで、実際は深夜放送の方を主に聞いていた。

 最近ネットで「名作は夜生まれる」などという文面を目にして、ふと考えてみたら、夕方から深夜まで仕事をする人が多いことに気が付いた。私の知る限りではイラストレーターの益田ミリさんは夜中に仕事をして朝が来たら寝て、起きるのはお昼だ。ミリさんの漫画の中に散りばめられた、普通の人ではとても思いつきそうもないインスピレーションは夜中に生まれていた。やはり夜の静寂は人の感性を刺激し、才能を開花させる摩訶不思議な力を持つのだと信じたくなる。

 以前日経新聞の夕刊に今はもう終わってしまったが『読書日記』という連載があった。その連載で詩人のカニエハナさんが自分の詩が生まれる瞬間を書いていた。カニエさんは詩集『用意された食卓』で2016年の中原中也賞を受賞した気鋭の詩人である。そのカニエさんによると、家族が寝静まって、真っ暗になった台所のダイニングのテーブルの片隅で、古いスタンドの薄暗い灯りしかない場所でしか自分の詩は生まれないのだと言う。薄暗い空間の中に身を置いていると、不思議なことに言葉が自然と沸き上がってくる。なので、雑音が充満している明るい昼間に詩の創作はありえないのだ。

 小説でも詩でも、漫画でも芸術に関する仕事をしている人はどうやら夜が好きらしい。先日テレビ番組を見ていたら、ドラマの脚本などを書いているバカリズムさんが出ていて、「僕は基本的に、夜中は何かしら書く仕事をしています」と話していた。だがその一方で、作家のいとうせいこうさんは、「夜中書いた原稿を朝読み返してみたら、ロクでもないことが多いんですよ」と歎き、「あれは時間の無駄でしかありません。それくらいなら朝早く起きて書いた方がよっぽどいいものが書けますよ」と指摘していた。いとうさんは十分な睡眠をとってこそ、ベストな仕事ができると主張する朝型の作家のようだ。実際に「知の巨人」と呼ばれる作家の佐藤優さんは毎日4時45分に起きて、すぐに仕事に取りかかる。直木賞作家の西條奈加さんも朝型で、毎朝7時に起きて仕事机に直行する生活をしている。起きたばかりの頭の中は小説のことで溢れかえっているらしく、それを早く吐き出したいのだ。おかげで「文章は夜書くもの」というステレオタイプな思い込みを覆されてしまった。

 今現在私は朝方の生活をしているので、昔のように深夜を楽しむことはできないが、それに代わるのは夜とも朝ともつかない皆が動き出す前の静寂のひとときだ。昼夜逆転の生活に未練はないが、誰もが自分が落ち着ける静寂の世界を求めているのは確かなようだ。

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虫報告って何?

岐阜県美術館勤務の監視員でもあるイラストレーター、宇佐江みつこさんの漫画。

美術館での「飲食禁止」には訳があった

 「いつも美術館で椅子に座ったままじっと動かない人、あの人たちって、パートのおばさん?、そうじゃないとしたらもしかして学芸員だったりして・・・」などという私の長年の疑問に答えてくれたのが、宇佐江みつこさんだった。朝日新聞の夕刊の『アートの伴奏者』というコラムで美術館に監視員という必要不可欠な仕事があることを知った。監視員ははたから見ると、絶対に眠くなって、退屈してしまいそうな仕事にも見えるが、実際は一瞬も気を抜けない仕事だと知って、目から鱗だった。宇佐江さんは監視員として勤務しながら、勤務先の岐阜県美術館のSNSで漫画を連載中のイラストレーターでもある。冒頭に乗せた写真を見るとわかるとおもうが、なかなか可愛らしい猫の絵が印象的で、監視員の仕事を分かりやすく説明してくれている。

 さて、今回は「虫報告」と言うことだが、だいたいが美術館に虫なんているのだろうかと不思議に思った。ところがこの「虫報告」は監視員にとっては必須の仕事らしい。何のためかと言うと、美術館にとっては宝物ともいえる沢山の美術品の数々を守るためにである。「虫報告」と言うのは、館内で見つけた虫すべてを捕獲し、決められた封筒に入れて、提出する業務の名称のことなのだ。となると、ハエだろうが、蚊だろうか、夏になると出没する、あの不気味に光を放つGだろうが、何でも捕まえて封筒に入れなければならない役目を担うことになる。虫が苦手な人にはまことに酷な任務だが、幸いにも宇佐江さんは全然平気で、何の苦もなく仕事をこなしている。そして、虫を入れた封筒をどこに提出するのかと言うと、なんとそれは「学芸員のデスク」で、それには今でも戸惑う?のだと言うから面白い。ちゃんと、デスクの横には箱が置いてあり、「虫報告はこちらへ」と書かれていると漫画で指摘されていた。

 まるでお手紙のようだが、実は中身は虫!?と言うのがミソだが、これらの虫をどうするのだろうか。いったいどう始末をつけるのだろうかが気になる。まさか、封筒を開けて中身をいちいち確認し、虫の名前と数量をチェツクして統計などを取っているのではないかと想像したくもなる。漫画でもコラムでも、虫入りの封筒がこの先どう処理されるのかは触れられていないので、自分勝手に面白おかしく想像を膨らませるしかない。

 虫の運命はさておき、宇佐江さんが言いたいのは、美術館が飲食禁止なのは虫害を減らすための地道な取り組みの手段だということだ。飲食と言うのはあめやガムなども含まれており、おそらく美味しい匂いに誘われて、外部から虫が入り込む恐れがあるからだろう。言われてみればもっともだが、正直言って、あめやガムぐらい!?は許されるのではないかと安易に思っていた。美術品と虫との関係にはとうてい考えが及ばなかった私にはまたもや目から鱗だった。これから先美術館に行く機会があれば、私の場合たぶんそれは海外の有名な美術館に限られると思うが、その時は今までとは違った視点で館内の美術品を鑑賞できるに違いない。

 コラムの最後で宇佐江さんは最近とても嬉しい瞬間に遭遇したと書いていた。それは『19世紀に描かれた作品を見ていた高校生が「色がきれい」と驚いていた』そうで、『これってホントに、そんなに古い絵なの?』との素朴なひとことに胸がじ~んとしてしまったらしい。時空を超えて、遥か昔に描かれた絵画が現代に生きる私たちと会話をしているようなものだ。その不思議さに考えが及ぶと、いつの間にか日常を忘れてしまっている自分がいることに気づく。日常の厄介な事、悩ましい人間関係がどうでもよくなる、少なくとも今このひとときだけは。そんな気分転換ができてしまうのが、美術館という摩訶不思議な空間の効用だと言えなくもない。

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好きなもの捜して街へ

外に出たら、そこは好きなもので溢れてた

先日の朝日新聞の土曜版「Be」の連載『私のThe Best 』に登場したのは文筆家の甲斐みのりさんだった。正直言って、その人の名前を聞いたこともなかった私はすぐに読み飛ばそうと思った。ところが、冒頭に『あの頃の私を知っている友人たちは「大丈夫かな」と心配していたそうです』とあったので、急に興味津々になった。なんともこの書き出しは読み手の好奇心をくすぐって、素通りできなくさせてしまうところが実にうまいと思う。何、何、いったい何があったの?と友だちだったら、話の続きをせがみたくなるような書き出しだ。

 甲斐さんは大学の4年生のときに生きることに行き詰ってしまって、自分のアパートに閉じ籠った。その時『何かしない限りは、ここから抜け出せない』と思い悩んだ。考えに考えた挙句の果てに、思いついたのは『好きなものをノートに書くこと』だった。フランス映画とか、好きな歌の歌詞、猫のこと、映画のセリフ、好きな本の文章の一節などをスケッチブックに書くのだが、なかなか埋まらない。スケッチブックを買ってきて、『この一冊を好きなもので埋められたら、私は変われるんだ!』と決めたのに。そこで甲斐さんは外に出ることにした。部屋の中で好きなものを見つけられないなら、外に行けば何でもあるではないかと考えた。実際外に出てみると世界は自分の好きなもので溢れていた。好きなものに囲まれていたら、俄然生きるのが楽しくなった。

 『あれも見たい、あそこにも行きたい』という気持ちは毎日を楽しくし、そして、自分を忙しくさせた。甲斐さんによると、部屋に閉じ籠っていて、しばらくぶりに外に出てみたら、何の変哲もない見慣れたはずの近所の商店街が「こういうのっていいなあ」と本気で思えたのだと言う。また、『自分のことは語れないけど、好きなものの紹介はできる』と思えたことで、それが生きていく自信にも繋がった。『物事を加点法で見るようになり、ノートを手に街を歩いたことが今の仕事に生きています』と言う甲斐さんは”好きが自分を支えてくれる”と確信している。最後は『自分の文字で書き、何が好きかを認識し、夢中になってみると、新しい世界が見えてきます』と締めくくられているが、その言葉で私の心はなんだかぽっかりと明るくなった。

 現実の世界は誰にでも見え方は同じであっても、物事は多面的で人の見る角度によって感じることには雲泥の差があることも確かなようだ。その点において、甲斐さんは大部分の人とは一線を画している。ほとんどの人たちは物事を見る時、厳しい減点法でしか見られないが、甲斐さんはあえて加点法で見ようとする。その考え方の原点には小学生の時に見たアニメの「愛少女ポリアンナ物語」が大いに影響しているようだ。逆境にあっても何とか生きていくためにポリアンナが身に着けざるを得なかった処世術は”よかった”を探すことだった。物事にはすべて表裏があり、悪いことや残念なことが起こってしまったら、かならず明るい面を探そうと努力した。やがてそうすることが習慣になり、楽にできるようになった。そんなポリアンナでも、”よかった”がどうしても見つけられないと泣いてしまう出来事もあった。その出来事とは、自分を可愛がってくれた人の死だった。さすがの彼女も死という厳然たる事実に遭遇して、“よかった”という感情はどこにも入り込む隙間はないのだと気付かされる。

 甲斐さんは、要するに、ポリアンナと同様に”よかった探し”をしている人なのだ。好きを探すのが生きがいで、自分だけで楽しむだけでなく、文章にしたら、二倍楽しめると言うわけだ。好きだから、この高鳴る気持ちを表現したくなり、文章を書いてみたらより一層楽しくなった。そうしたら、いつの間にか、知らないうちに今の文筆家という職業に繋がっていた。最近は”好きを仕事にする”という言葉が流行りで、普通はそんなの簡単じゃないとかありえないとか私などは思ってしまう。でも甲斐さんは現実において”好きを仕事にしている人”なのだから、脱帽するしかないし、また稀有な人と 言えるだろう。

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予想外のカードの受難

カードが届かない訳がやっとわかった

 以前のブログで今月でクレジットカードの期限が切れるのに、まだ新しいカードが届かないと嘆いたことがあった。中国の動画配信サービスのアイチーイーに入ろうとして、たまたまクレカの期限が差し迫っていることに気づかされた。海外旅行にでも行かない限り滅多にカードを使う機会がないので、普通なら気づかずに過ぎてしまうことだった。だが、幸か不幸か今月で切れることに気づき、何やらそわそわし始めた。一刻も早いカードの到着を待ち望むようになったというわけだった。だが、そう言う時に限って”待ち人来たらず”で、気にしないふりをしていても、やはり気になって仕方がないものなのだ。

 3月になってもいっこうに更新カードは届く気配もない。このまま届かなかったらどうなるのかなあなどと縁起でもないことが頭の中にぽっかりと浮かんでくる。まさかそんなことはないでしょうと自分で自らを慰めるものの、現実には手元に届かないのだから内心は不安だらけだ。そんなときスマホにワイモバイルからメッセージが届いた。「お客様が登録されているクレジットカードは今月で期限が切れるので・・・」という内容で、わざわざ全文を読まなくても言いたいことはすぐに理解できた。ただ、このメッセージによって背中を押された私は躊躇なく行動に出た。それまで”果報は寝て待て”とばかりに待つことだけに集中して、できることはそれしかないと思い込んでいた。でもその時は、今電話しなくてどうする、といった差し迫った状況にあることに間違いはないと確信した。

 それで、カード会社のコールセンターに電話を掛けてみた。AIによる音声ガイダンスに従って番号を選び、人間に繋がるまでひたすら待つが、「ただ今電話が大変混みあっています」の一点張りで全く繋がらない。どうせしばらくは繋がらないだろうから、動画サービスでドラマを見ながら待つことにした。朝の9時、11時、3時、さらにダメもとで5時と諦めきれずに電話をした。思った通り、繋がらないじゃないと諦めかけた5時少し前に、スマホから「お客様、お客様、電話は繋がっていますよ」とのコールセンターの係りの人の声が聞えた。その声が暗闇の中に見える北斗七星のように、あるいは迷える子羊を救ってくれるであろう女神のようにも思えたことは言うまでもない。

 早速カードが届かない理由を聞いてみると、意外なことが分かった。更新カードは3月1日に配達されているのだが、「宛名不完全」で郵便局に戻されたと言う。なぜそんなことになったのかと言うと、住所変更の時に私が住所を間違えて登録した?らしく、それが原因で手元に届かなかったと担当者に言われてしまった。実を言うと私は数年前に近隣に引越しをして、カード会社のWEBサイトで住所変更をした。なので、今回も念のために住所変更を確認済みだったのだが、今更「間違っていないはず」と主張しても何の意味もないのでやめておいた。

 新しいカードはもちろん簡易書留で送られてくるのだが、一度「宛名不完全」で戻されると、どれだけ厄介なことになるかを今体験中である。コールセンターの係りの人によると、3月6日現在においてまだカード会社には私のカードは戻ってきていない!?ようで、戻って来次第届けてくれると言うが、その際は1週間か10日はかかると言われた。それが郵便局から戻ってきてからなのか、あるいは今現在の日付からなのかは定かではないが、追及する気にもならなかった。とにかく首を長くして、ひたすらカードの到着を待ちわびるしかないらしい。

 だいたいが郵便局からいつ戻ってくるのかも教えて貰えないのだから仕方がない。私の希望的観測では遅くとも今月中には届くだろうと思って、悠長に構えることにした。3月23日のカードの有効期限になっても届かなかったら、もう一つの別のカードで登録し直そうと思っている。考えてみると、私の場合はカード引き落としは携帯ぐらいのものだから、カードの更新をするにもたいして影響はないが全てカード払いにしている人は大変だろうなあと想像してみる。その辺のところを考慮して、もっと余裕をもって更新カードを発行して貰えないものなのだろうか。一度受け取り損なったら、その当人は私のように無駄にやきもきしてしまうだろうから。

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群れなきゃ

グループの中に居た方が安心?

 「グループの中に居て苦しいなら、一人でいる方がまし」。これは以前見たドラマの中で観月ありささんがママ友とうまくやれない主婦を演じていて、ふと漏らした本音である。自分の子供のために他の子の親たちと良好な関係を結びたいと思うのは当然のことだ。でも自分の考えとは違った価値観を押し付けられたり、他人の悪口を聞かされたりして、逃げ出したくなってしまうことが多かった。どうにも苦しい。子どものためとはいえ、こんな人たちと我慢して付き合わなければならないのだろうか。一度は今だけなのだからと開き直るが、そうまでして表面だけでも仲よくしなければならないのが納得がいかない。こんなの間違っている、こんな私は本当の私じゃない、と思ったらもう抑えきれなくなった。

 それで「こんな馬鹿げたことはもうやめる」と決心し、冒頭で書いたようなセリフを言い放つ。ドラマを見ているこちらは、彼女の決断がいかに勇気がいることだったかを切々と感じることができた。他の母親からは「私も本当はあなたと同じことを思っているけれど、勇気がなくてできないの」と言われてしまう。要するに群れを離れるのが怖いのだ。「子供のために」という名目で、この状態が永遠に続くのではなく今だけなのだからというそれだけの理由で、その場しのぎとしてとりあえず我慢しようとしていた。誰でもひとりは嫌だし、群れの中なら安心と思いたいのが人の常だが、現実はそんなに単純ではない。それでも人は表面上は集団の中でうまくやっていこうとして、群れの中にいるのを選択せざるを得ないものらしい。

 子供の頃学校のクラスの中でもグループが出来ていて、それぞれ気が合う子同士2,3人で休み時間などはおしゃべりをしていた。あの頃一人でポツンといる子なんていないと思っていたが、一人だけ居ることに気が付いた。勉強ができて、いつもニコニコしていて、皆の模範になるような女の子、学級委員のアヤちゃんだった。考えてみると、アヤちゃんは職員室の先生のところに行ったりして、忙しいのだ。ある日休み時間に友だちとふざけ合っていて、何気なくふと周りを見渡したことがあった。皆がそれぞれグループで群れて、ガヤガヤしている中で、アヤちゃんだけが教室で一人ぼっちでいた。意外だった。考えてもみなかった。皆に好かれているアヤちゃんなら、当然グループの中心にいるべきだと思い込んでいた。その時私は、優等生というのは孤独なのだと気付かされた。皆から好かれてはいるが、特別親しくしている子はいないようだった。皆優しいアヤちゃんが大好きなのだが、いつも一緒に居るべき存在とはまた意味合いが違うらしい。かくいう私もアヤちゃんと友だちになりたかったが、どうせアヤちゃんにはもう親しくしている子がいるとばかり思っていたので、”友だち”になるのを諦めていた。だからこそ、あの時アヤちゃんがひとりでポツンと居たことに衝撃を受けたのだ。

 さて、大人になって社会人になったとき、会社でうまくやっていくにはどうしたらいいか自分なりに考えた。会社には自分を指導してくれる先輩がいて、その人とうまくやっていくことが必須事項になった。そうなると当然昼休みも一緒に過ごすことになって、「ご飯一緒にどう?」と言われれば、断る理由などあるわけもない。会社の帰りも地下鉄の駅まで行く道すがら、同期も交えて雑談をするのが習慣になった。要するに私は群れの中で安心したくて、たまには一人でさっさと帰りたくても出来なかっただけのことだ。それに周りにもそんなことをする人は誰もいなかったから。あくまで仕事とプライベートは別物なのに、付き合わなくてもいいのに、そうしなきゃとしか思えなかったのだ。

 だが、後から入ってきた後輩は違った。「お先に失礼します!」と元気よく声をかけながら、群れで動く私たちを平気で追い抜いていった。目から鱗だった。彼女はいとも簡単に越えられないと錯覚していた壁を乗り越えてしまった。もちろん彼女は昼休みも私たちとは別行動だし、帰りも一緒には帰らない。だからと言って、別に雰囲気が悪くなったわけでもないが、世間話のひとつもしないので彼女のことがよくわからないだけのことだ。

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節約しなきゃ

日々囚われすぎると、苦しくなる

 考えてみると、以前は「節約しなきゃ」という意識にとらわれ過ぎていた気がする。あれやこれやと考えて、その時は節約出来たつもりでも、実際はたいして節約できていないのだった。毎日の、いや最近はなるべく回数を減らすようにはしているが、スーパーでの買い物の時にも「節約しなきゃ」は付いて回る。そうなると、キュウリを買うにも、バラで買った方がお得なのか、あるいは袋に3本入っている方を買った方がいいのか、そんな些細な?ことにない頭を使うことになる。はっきり言って、とんでもない時間の無駄である。日頃から時間がないとしょっちゅう嘆いているのに、こんな時はまた別らしく、全く自覚がなかった。

 そんなとき、新聞で「食料品で節約しようとすること自体が間違っているし、それにそんな些細な事ではたいして効果はない」とファイナンシャルプランナーの人が書いている記事を見つけた。そうか、10円、20円をケチって、なんだかんだと思案するのは得策ではないらしいと気が付いた。ではいったい何で節約するのがいいのだろうか、と思ったら、それは毎月の固定費だった。つまり、生活するのにどうしても必要な家賃とか保険料とか通信料とかの決まっている経費のことだ。それらを収入に見合った金額まで抑えることが必須で、そうすれば、食料品を買う時に「節約しなきゃ」の意識に脅かされることもない。日々、強迫観念のように忍び寄る「節約しなきゃ」の影の声に少々疲れてきていたのも確かだ。

 毎日「節約しなきゃ」の意識に支配されていると、生きがいのひとつであるささやかな楽しみさえも奪われてしまいそうだ。なので、「節約しなきゃ」から少し距離を置くことにした。この意識からなるべく気をそらして、考えないようにすることにした。自分で言うのもなんだが、私は日々何か楽しいことはないか、面白いことはないかと捜し回っているような人間で、すぐに感動して、すぐに忘れる何とも単純な性格である。つい先日もテレビで中国ドラマ『長安賢后伝』を見ていて、その合間にCMが入った。ジャパネットのCMで商品はイギリスの有名ブランドのトースターで、トーストが表面はサクサク、中はフア~っと美味しく焼けるとMCが声を大にして訴えていた。

 このトースターは従来の商品とは一線を画している優れ物なのだとの説明を聞いていたら、なんたることか、「欲しい」と一瞬思ってしまった。そうなるともう気持ちは止められず、手元にあったメモ帳にフリーダイヤルと商品番号を書き留めた。トーストなんて、いやパンなんてそうたいして好きでもないのに、それにパンを焼くときは魚を焼くグリルを使っている私が、なんともいい気持ちになってしまったのだから恐ろしい。要するに、CMのトースターを買ったら、今よりもずうっと幸せになれるという幻想を抱いてしまったのである。一瞬の儚い夢を見ただけのことで、それを証拠に私はすぐに正気に戻って、ため息をついたのだ。

 日々、こんな情けないことばかりやっているが、ちゃんと戒めにしていることはある。ファイナンシャルプランナーで節約評論家の丸山晴美さんの言葉に「めんどくさいは貧乏の始まり」というのがあって、よく考えてみると今流行りの「時短」とは対極にあるような気がする。以前読んだ篠田節子さんの小説に年収一千万円を稼ぐキャリアウーマンが出てくるが、実は彼女には貯金は全くない。なぜかと言うと、大好きなワインを飲むバカラのグラスも、シルクの下着も洗うのが面倒なので、汚れたものはすべて段ボール箱に詰めて押入れに追いやっていたからだ。何でも新しい物を買って使ったり、身に着けているので、お金がかかるのは当たり前だった。それでも彼女は「仕事が忙しいから、洗う暇がなくて」といいわけをするのだ。

 それから、お金を使わないための習慣として、心がけているのは、「何かよさそうなものはないかなあ」などとネットサーフィンをしないことだ。また、よくテレビ番組で紹介されている「あったらいいなあ」と思える商品を買わないようにしている。「あったらいいなあ」を突き詰めたら、物が増えるだけでなく、お金もキリがないような気がする。適当に不便でもいいかと思っている、元ミニマリストとしての意見だが。それと、用もないのに「いい事を探しに」コンビニに行かないのは言うまでもない。最近ではスーパーに行く回数も減らしている。なぜかと言うと、急に目標ができたおかげで、時間が足りなくなったせいだ。今までスーパーに行くのは”気分転換”のように感じていたが、それを節約したくなった。

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皆と仲良くしなきゃ

すべては人間関係をよくするため

 私の姪は大学を卒業して、かねてから希望していた児童養護施設で働いている。その姪が叔母の葬式で久しぶりに会った時に、「今のところは自分に合わないので他に移ろうと思っている」と話していた。姪によると、今の施設で一緒に働いている職員は彼女とは指導方針が異なるようで、そんな環境に身を置いて働くことに疑問を持ち始めたと言う。目指すものは人それぞれで、生徒に対する指導方針も異なることは当然だが、できる事なら自分と少しでも志を同じくした人たちと働きたい。そんな考えから転職を考え始めたようだ。言って見れば、これもひとつの人間関係が上手く行かないから転職を希望する例と言える。世間一般から見れば、彼女の場合は少し意味合いが違うかもしれないが、基本的には人の資質に関わることなのだから。

 その時私は彼女に、「人間関係は永遠の宿題みたいなもの」などと何の役にも立たない、とんちんかんなことを言った覚えがある。彼女よりもずうっと長く人間をやっているのに、未だに解決できない「人間関係」という課題を抱えて右往左往している。全く情けないような話だが、えらそうにアドバイスできる立場でもない。それに私なんかよりも、はるかにうまく、卒なくやっていくのかもしれないから。見るからに賢そうで 芯が強そうな彼女だが、もうちょっと柔軟な発想もあってはいいのではないかと感じたことも確かだった。

 彼女のことはさておき、私はこれまでずうっと「皆と仲良くしなきゃ」と思っていた。特に職場においては皆と仲良くすることは必要不可欠な ことだと考えていた。ここでの「仲良く」は誰とでも気楽に世間話ができることで、それは職場の雰囲気に大きく影響し、仕事の質にも関わってくることは間違いなかった。最初は仕事の話だけしていれば十分で、そんな余計なことは必要ないと思っていた。だが、ある啓発本に『雑談のない職場はなぜこうも人が辞めていくのだろうか?』と書いてあったように、氷のようにヒヤリとした雰囲気を醸し出していて、心だけでなく身体にも悪いのだ。

 そんなことは気にしないで、努めて仕事に集中しようとするが、仕事というのは自分ひとりでできるものでもなく、必ず相手がいるものだ。となるとカケラほどのコミュニケーションであっても必要で、それによって相手の反応が驚くほど変わってくるのだ。要するに、仕事のことで少し話をする際も、全く雑談をしたことがない私と、仲が良い誰かさんとは対応の仕方が異なるのだ。そんなことは気にしなければいいのだが、こちらはなんだか疎外感を抱いて、なんだか後味が悪い。それに無理なお願いをするときも相手と友好的な関係を築いておくことは有効だった。人間は機械ではないのだから、感情に左右されることは間違いない。

 人間関係を良くすることはより良い職場環境に繋がるのだと信じて疑わなかった。なので、誰とでも、自分の苦手だと感じる人とでも、気軽に話そうと試みた。何も相手とわかり合いたいのではなく、ほんの少しの間世間話ができれば満足なのだ。社会人ともなれば、ほんの数分ぐらいの世間話くらい、どうってことないだろう。まずはあいさつで、それから何でもない話題、例えば、一番当たり障りのない天気予報のことを話せばいい。実を言うと、これは大型書店のビジネス書のコーナーにあった啓発本の受け売りのようなもので、それを即実行に移したわけだ。それ以来『誰とでも会話が途切れない話し方』だの『会話上手になれる20のフレーズ』等々のありとあらゆる啓発本を読み漁り、試してみたものの、実際は本の通りには上手く行かない。

 だが、私は以前ある新聞記事を読んで目から鱗だった。そこには、悩むくらいなら、そうまでして『皆と仲良くならなくてもいい』のだと書いてあった。となると、エレベーターで同じ部署の人と二人きりになったとき、沈黙が怖いからと無理に話さなくてもいいと言うことなのだろうか。つまり、そう簡単に仲良くなれるほど、人間というものは単純な生き物ではないということなのだ。

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