人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

44億円も落し物が

7歳の子どもの指摘に仰天

 新聞に載っていた、木村隼人さんの『44億円も落ちてたの!!』というタイトルの投稿に思わず目を見張った。木村さんは7歳の小学生で、「東京都で落しものとして届けられたお金が44億円と聞いて、びっくりしました」とそのとんでもない額に驚きを隠せないようだ。木村さんは自分も東京に住んでいるのに、一回もお金が落ちているのを見たことがないのにと不思議がっている。また、落ちているお金をいちいち正直に届ける日本人にも感心していて、「僕だったら、正直届けるだろうか」と自問している。日本はつくづく安心安全な国だなあと、改めて再確認したようだ。

 そんな木村さんは、「大金を見つけて、お巡りさんに届けて、落とし主にもどり、ありがとうと落とし主にお礼を言われて、お礼にお小遣いを貰うことを夢見ています」と正直に告白している。この発言を聞いて、まるで宝くじに当たるような幸運を願っているようなものだと思ったが、この世の中においては何処にもそんなラッキーチャンスは見当たらない。それどころか、道を歩いていて、硬貨はおろか、一円だって落ちてはいない。それにもしも千円落ちていたとしても、やっぱり、ちょっと気持ち悪くて、拾わずに通り過ぎるだろう。

 そう言えば、一度だけ、街を歩いていて、千円札が2枚空から舞い降りて来たことがあった。足元にある千円札2枚を拾い上げて、ふと周りを見渡した。すると、前方に女の人が居て、財布を手にして、何やらうろうろしている様子。その日は風が強い日で、財布からお金を出そうとしたら、風に吹き飛ばされてしまったらしい。間違いない、私が拾った千円札2枚は、その女の人のものだった。すぐに駆け寄り、その人にお金を渡した。もしかして、魔がさして自分の物にしていたら、きっとわだかまりが残っていただろう。たとえ、その拾った2千円でいつもより少し豪華なランチにありつけて、良い思いをしたとしてもだ。降ってわいた2千円のプレゼントは嬉しいが、その入手経路がなんだか後ろめたい、なぜなら、元々は他人の物で、偶然自分のところへやってきただけなので、それを堂々と使うのは憚られる。まあ、お金に名前は書いていないが、自分の物でないことは重々承知しているからだ。

 大金を見つけて、警察に届けるといえば、ゴミ捨て場から札束が出て来て、仰天したというニュースを時々耳にする。大金の持ち主は本当にそんなとんでもない額のお金の存在を忘れているのだろうかと訝しく思う。普通の人間の反応としては、誰も知らないのだから、自分の物にしてしまおうなどとはとても思えないだろう。まずは嬉しい驚きよりも、恐ろしさの方が勝る。心臓がどきどきして、一刻も早く今の興奮状態から逃れたいと私なら思う。その点において、投稿者の木村さんと私は一線を画しているのだが、木村さんの子供らしい夢も理解できないこともない。

 どこかに隠しておいた大金を忘れることがあるのなら、いったいお金をどこに隠すのかに興味津々になる。最近新聞を読んでいて仰天したのは、各家庭における貯蔵資産がかつてないほどの天文学的数字を記録したという記事だった。貯蔵資産とは、いわゆる、タンス預金のことだ。銀行に預けないで、タンスに保管し、ときどき眺めて楽しむのだそうだ。タンス預金というのは皆がやっているものなのだろうか。そんなにお金が余っているのだろうかと、羽根があるお金しか持った経験がない私には全く見当もつかない。でも、昔こんな話を耳にしたことがある。近所の井戸端会議で、小学生の子供が友だちの家に遊びに行った時、押し入れに札束があることを発見して衝撃を受けたという。

 遊びに行った先の家は父親はサラリーマンで、母親は子育ての合間にパートの仕事をしていた。要するにどこにでもある平均的な家庭だったので、子供は余計にガツンと来たらしい。その子と友だちはいつものようにゲームで遊んでいたが、何か探しものをしようと、押し入れの中を探していたら、偶然札束に遭遇したのだった。大金、いや、札束と無縁の小学生の子供が、いきなり札束を目にした場面を想像しただけで、空いた口が塞がらない。これはもう家に帰って誰かに、家の誰か、とりあえず母親に言わずにはいられなかった。どうしても話さないことには気もちが収まらなくなった。そして、その話を聞いた母親は、自分の胸の中にしまっておくことはできなくて、近所の人に話し、そのおかげで、この話を私は知ることができたというわけだ。

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