人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

スリッパについて考えた

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スリッパ履く派、それとも、履かない派?

 先日の金曜日の朝日新聞のエッセイ『大人になぅた女子たちへ』は漫画家の伊藤理佐さんの担当だった。テーマはスリッパで、伊藤さんは家ではスリッパとは無縁な生活を送っているらしい。それでも、不本意ながらどうしてもスリッパを履かなければならない機会はやって来る。例えば、子供の学校の保護者会で、うっかり自前のスリッパを忘れてしまったときとか、あるいは区の施設のトイレとかに入るときなどである。スリッパに慣れていないと、いや、こういう場合は、どこの馬の骨ともわからない人?と言ったら大変失礼なのだが、赤の他人が履いたであろうスリッパを履かなければならない。さっさと、何も考えずに履かなければならない場面なのだが、一瞬ためらう。まあ、いいか、少しの辛抱だから、とか、何も素足に履くわけではないのだから、と自分を宥め宥めて、思い切って履く。公共のスリッパを皆で共有することに抵抗を感じてしまうのは、私だけなのだろうか、と伊藤さんは戸惑っている。

 それと、もう一つスリッパを履くのを一瞬躊躇してしまう場面があると言う。それは新居を立てたばかりのお宅を訪問した時などに、真新しい、いかにも高そうなスリッパを出されたときだ。そんなときに限って、自分の足はしっかりと汗をかいている状況にあることが多い。だから、こんな不衛生な足で、目の前にある新鮮なスリッパを履いていいものだろうかと戸惑う。これって考えすぎと言えばそうなのだが、伊藤さんの想像力はさらに進んで、「もしかして、汚い足で家に上がらないで!」ってこと!などと言う妄想に近いレベルまで跳ね上がる。途中まで読んできて、がさつな私などは「何もそこまで考えなくてもいいでしょう」と正直思う。だが、ふと以前見たテレビ番組を思い出した。出演していた男性タレントの話では、本当にきれい好き、いや、潔癖症の人は他人に靴下のままで歩かれるのが耐えられないのだ。彼の友人がいわゆるそのタイプで、自分の家を他人に汚されたくないので、必ずスリッパに履き替えるように言われると言う。

 その一方で、トイレにスリッパがない家というのがごくたまにある。トイレにスリッパは必ずあると思い込んでいたら、何もないのでどうしたらいいのかと戸惑ってしまう。「あの、スリッパがないんですけど」と声を大にして言いたいが、分厚いトイレ用マットが敷いてあるからまあいいかと、そのまま使う。考えてみると、トイレの床とリビングの床や畳の上が同じ部類に属するとは到底思えないが、これも些細なこと?と受け止めて、一切気にしなければ済むことだ。”郷に入らば郷に従え”と解釈して、まあ、自分の家ではないのだからと「不衛生」の文字を頭から追い払うことにする。私のような掃除嫌いの人間でも、トイレとそれ以外の部屋の区別はしたいのだから、おかしな話なのかもしれない。

 考え方を変えれば、世の中にはトイレで読書するのが好きという人もいるのだから、トイレ=汚い所というステレオタイプはもう消滅していいのかもしれない。だが、私としてはトイレに入った靴下のままで、外に出てきて、リビングや座敷を歩き回るのが何だか落ち着かない。たいして綺麗好きでもないのに、妙にこだわってしまう私って変なのだろうか。実をいうと、トイレとその他の生活の場をきっちり区別したいのだ。本音を言えば部屋を汚したくない、つまり掃除がこまめにできない、というよりやりたくないのだ。掃除の手間を省きたければ、どうしたらいいのか。私の友人などはから揚げやコロッケ等の揚げ物を家ではやらないと決めた。なぜならあれをやると台所の換気扇が汚れるし、タイルも油でベトベトになるからだ。やらないと決めたら、おかげで掃除が簡単になって、ストレスも減ったそうだ。

 私も伊藤さんと同様スリッパとは無縁な生活を送っている。台所ではせめて履いた方がいいのかとも思うが、脱いだり履いたりが面倒くさいので必要ない。そう言えば、知人は以前ダイエットスリッパを履いていた。スリッパの踵がない、どう見てもひっくり返りそうで、危ない代物である。「そんなものでよく歩けるね」と感心していたら、最近は履くのをやめていた。その理由はズバリ、「ちっとも痩せやしない」からだった。

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