人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

うるさいこの音の全部

不可解で、それなのにやたら胸がざわつく小説?

 実を言うと、今の私は、この「うるさいこの音の全部」という小説の感想をさっさと終わらせたいと思っている。手っ取り早く済ませて、まあ、実際はそんな簡単にはいかなくて、無い頭を悩ませているのだが、次に、何でもいいからわかりやすい小説に移行したいと強く望んでいる。それなら、すっぱりと切り捨てて、何もなかったかのように、さっさと図書館に返しに行けばいいのだが、それはできない。なぜなら、高瀬さんの芥川賞受賞作である『おいしいごはんが食べられますように』にあんなに何度も挑んだのに、結局読めずに終わった私が、この作品を我慢しながらも最後まで読めたからだ。そりゃ、途中、途中、何度も退屈して飛ばしてしまった箇所もあるにはあった。だが、曲がりなりにも、だいたいのあらすじはつかめた、読み終わって初めて。

 だから、私が費やした時間が堪らなく惜しい。上手く書けないからと言って、ブログを書くことを放棄するだなんて、もったいないことは死んでもできない。なんとも大げさな話だが、この小説には引っ掛かるところが多すぎる。感動したとか、共感したとか、といった表向きのスマートな感想は書けそうもないが、心に引っ掛かるモヤモヤは消えず、すっきりしない本音は書きたい。もっとも図書館の本だから、読んで面白くなければ、返却すればいいという気楽なお試し気分で借りただけのこと。これが立読みなら、上っ面をさらりと読んでみて、即思考停止だ。なんだかわけわからないとなって、決めつけて、もう二度と本を手に取ることはないだろう。

 そもそも、この本「うるさいこの音の全部」のことを知ったのは、新聞の新刊の広告欄だった。「職場に内緒で、小説を書いていたが、文学賞を取ったおかげで、そのことがばれて、大変なことに・・・」というコピーが書いてあったっけ。それで、私は素直に、突然自分が有名になってしまったら、どんなことが起るのだろうか、などと興味津々になった。まさに、今の高瀬さん自身の状況そのままのようなストーリーだが、毒のある小説、企み満載の小説を書く高瀬さんに限って、そんなはずはない。それに、先のブログに書いた「いい子のあくび」が結構面白かったので、大いに期待していたことも確かだ。

 だが、実際に読んでみると、最初のページから面食らってしまった。それは誰かが夢にうなされて、もがいている、何やら不穏な始まりだった。その苦悩はいったいどこから来るものなのか、どうなってしまうのかと本気で思った途端、途切れて、4人の女子大生の会話に飛んだ。最初から、わけがわからない。気にせず、読み進めていくと、グループの中のひとりの女の子が中華料理屋の中国人と付き合いだす。その子の思考では、付き合うということは関係を持つという意味と等しいのだと分かった。1時間くらいしか時間がないから、”そそくさと済ます”という記述に現実感が湧かない。

 その直後に、小説の主人公である朝陽という女性がゲームセンターで働く様子が描かれる。文学賞を取ってからというもの、彼女の周辺は一気に慌ただしくなる。地方出身である彼女は知らないうちに地元の有名人になり、何と市長から祝電が届いて驚愕する。職場でも、会社から宣伝のために広告塔になってくれるように依頼されたり、同僚からの羨望と嫉妬の視線に絡まれて、辟易する。外から否応なしに受けるこれらすべてが、うるさいのだ。できれば、純粋に小説のことだけを考えていたいのに、周りが、世間がそれをさせてくれない。まあ、小説家として生きると言うことはそう言うことなのかもしれないが。

 ここまで書いてきて、今から正直に言おう。どうして訳わからないにもかかわらず、この小説を読めたかというと、それは、先に書いた女子大生4人の話と、ゲームセンタ―で働く朝陽という女性と一体全体、どこでどう繋がるのか、知りたくてたまらなかったから。それさえ分かれば、もうこの小説を読む目的は果たしたと言っても過言ではなかった。小説を半分以上読み進めたときに、その時はやって来た。母親が朝陽に「今どんな小説を書いているの」と尋ねる場面が出て来たのだ。要するに、高瀬さんは、朝陽の日常と、彼女が書いている小説そのものとを交互に書き分けていたというのが真相だった。

 mikonacolon