人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

想像を絶する『楽園』の世界

商売のための旅は命がけ

 以前2021年のノーベル文学賞を受賞したアブドゥルラザク・グルナの著作『楽園』をどうしたものか、困っていると書いた。主人公の少年ユスフが父親の借金の方に商売人のサイイドに売られるところから始まる物語だ。何を困っていたのかと言うと、この小説は大長編で、あの時はちょうど3分の1ほどを読んだところだったが、正直言って飽き飽きしていた。浅薄な私には、この小説がどうしてノーベル賞に値するのか理解できなかった。要するに、この小説をバッサリと読むのをやめるか、それとも、この際だから我慢して一通り読んでその真偽を確かめてみるかのどちらかだった。

 はっきり言って、どうせ図書館から借りた本なのだから、今読まなくてもまた借りればいい。それになぜだか、この本は人気がないから、いつでも貸し出しOKだ。大長編だなので、内容をよく知らなかったら、本の分厚さを見ただけで、震え上がるのは必至だ。だが、ひとたび、なんだか良さそうという理由だけで、借りてしまったらもういけない。引くに引けなくなった。返しに行くには、どうも後ろめたい。せっかくこの本を読む機会が与えられたのに、それをみすみす逃すなんて、もったいないと思ってしまった。この本との出会いも、これもひとつの縁だと思い、未知の何かを求めて読み進めた。日本から遥か遠くにあるタンザニアがどんなところで、いったいユスフはどんな経験をするのだろうか。いったん好奇心が沸き上がったら、急には止められない。ページを捲って、その時が来るのを楽しみに待っていた。

 以前のブログで、ユスフは小学校の低学年くらいの年齢と書いたが、それは間違っていて実際には12歳だった。そのユスフがおじさんと呼んで慕っていたサイイドは借金のかたに何人もの子供を連れ去り、少女を育てて、妻にしていた。優しくて、いつも冷静で自分に良くしてくれるおじさんは筋金入りの冷徹な商人だった。とは言っても、ユスフはおじさんの息子でも、使用人でもなく、奴隷であることには変わりはない。

 ユスフの日常は言いつけられた仕事をするだけで、たいして変わり映えしなかった。だが、隊商に加わり、取引のために奥地に足を踏み入れた時、想像を絶する体験をする。行商をするということがどんなに厳しいものか、命の危険に晒されるものかをまざまざと見せつけられた。まずはタンザニアの奥地には野生動物が生息し、夜中に襲われて、何人かが命を落とすこともあった。恐ろしいのは人ではなく、自然界に生きる獣だった。獣だけでなく、一番厄介なのは蚊で、新聞で見た統計によると、世界で一番人を殺しているのは戦争でも、病気でもなく、蚊なのだという事実に驚かされる。

 この小説に出てくる「死の森」と恐れられる山道で、行商人は蚊の大群に襲われる。仲間の何人かが、顔中を蚊に刺されて血だらけになり、挙句の果てに出血多量で命を落とすことも珍しくない。さらに、人を襲った蚊は血を吸うだけでなく、傷口に卵を産み付けて繁殖行為を行うというから、そら恐ろしい。こんな描写を読んだだけで、震え上がり、どうしてこんな危険を冒してまで、商売をしに行くのかという素朴な疑問に行きつく。それはとりもなおさず、商売だからで、生きるためだ。奥地に入り、希少価値のある象牙や鉱石を買い付けて、何倍もの値段で売って儲けるために他ならない。人間の欲は危険を冒すことを躊躇させないようだ。

 また、別の危険に晒されることもある。山奥の部族の村で商売をしようと立ち寄ると、折も折、部族の女性が川でワニに殺される事件が起きたばかりだった。すると、部族民はどこの馬の骨ともわからないよそ者が来たせいだと行商人に罪を擦り付ける。たちまち、悪魔だの、災いを運ぶ輩だのと、追い立てられる。誤解を解こうとしてもなす術がない。それどころか、夜中にハイエナに襲われて、何人かが命を落とす。部族民が報復として、ハイエナを商隊のキャンプに放ったのだ。

 

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