人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

おいしいごはんが食べられますように

今週のお題「読みたい本」

すごく読みたかった、はずなのに、ページが捲れない

 以前私が物凄く読みたかった本は、高瀬隼子さんの芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』だった。「だった」と過去形なのは、いまでは、当時の情熱の波が嘘のように消え失せて、穏やかになっているからだ。高瀬さんのこの本が芥川賞に決まったとき、連日新聞にはでかでかと高瀬さんの美しい顔写真が載り、本の宣伝もそれはそれは物凄かった。不思議なもので、毎日見ていると、嫌でも興味をそそられた。それに、『おいしいごはんが食べられますように」という意味深なタイトルにも、なんだかむずがゆくなるような気持ちになった。

 そもそも『おいしいごはん』って何だとあれこれ考えてみたら、「彼はおいしいごはんを作ってくれます」とか、「今日もごはんがおいしい、明日も明後日も、美味しいご飯が食べられますように」とかという、自分勝手な妄想が駆け巡った。どうやらこの小説は美味しいものがふんだんに出て来て、空腹時に読んだらたちまち飢餓状態に陥ってしまう危険な読み物ではないかとさえ空想した。その頃本屋にしょっちゅう入り浸っていた私は、もちろんこの本を手に取って立読みをしようとした。大型書店なら、座り読みもできるのだが、なぜか椅子には座らず、その場で読み始めた。きっと、本が予想したよりページ数が少なく薄かったせいもあるのだろうが、本当なら、一気読みも可能だった。だが、何たることか、私の手は4,5ページだけで止まってしまった。

 たしか、この小説の冒頭の場面は、ある職場に勤める従業員たちがお昼に何を食べようかとあれこれ考えているところだった。私の記憶にあるのは、そのうちのひとりの「彼なんて、お昼にカップラーメンで十分だなんて言ってるわよ」との発言で、要するにこんな話で始まったことに、少し飽きていたのだ。思慮深い人なら、こうは思わないのかもしれないが、もっと何かを期待して、と言うか、それでどうなるのと思わせてくれるような展開を期待していた当方は、少しがっかりした。そのときはその先を読むのを諦めて、高瀬さんの著書『おいしいごはんが食べられますように』が大半を占める棚の前から立ち去った。

 私が本を読めなくても、新聞紙上では、この本のことがコラムの中で言及されたり、あるいは書評で取り上げられたりと、高瀬フィーバーは凄かった。自然とこの本の情報に何度も晒され、あれやこれやと詰め込まれ、満腹になるほど私の中に入って来た。本を読んでもいないのに、まるで本を実際に読んだかのように錯覚してしまいそうになった。だが、”百聞は一見に如かず”でしかないのは明かだ。そうなると、再び私の中に読んで見よう、というやる気が生まれ、もちろん本を手に取り、いざ読もうと試みた。だが、残念なことにやっぱりその場限りの情熱は続かなかった。今では、喉に引っ掛かっていた小骨が取れたかのように、きっぱりと諦めた。 

 ただ、聞いた話、いや、新聞の情報によると、今までスポットライトを浴びることがなかった弱者の影響をつぶさに受けている人たちに視点を向けている点が素晴らしい。それに、主人公が、「私と一緒に○○さんに意地悪しませんか」と○○さんと付き合っている男性に持ち掛けるのにも目から鱗だ。当の男性は付き合っているその女性が家庭的なことに満足しているように見えた。だが、本当のところは少しムカついていて、などという展開になるとしたら、これにはぞっとせざるをえない。ある作家の書評には「これは怖い小説だ」との記述があって、そうなると、この小説のタイトルがほんわかしているなどと思ったなら、間違いなく冷や水を浴びせられたような気分になるだろう。その点において、この小説における高瀬さんの企みは成功している。

 正直言って、本を読んでいない私がこんなことを言っても、どうしようもないのだが。

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