人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

子供が自転車に乗れるようにする、そんなサービスが

お金さえ出せば、どんなサービスも受けられる時代に

 自分の子供が自転車の練習をするときに、面倒を見ると言うか、サポートするのは当然親の役目だと思っていた。だが、昨今は何でもプロに任せた方がいいという考え方からなのか、外注するというか、リクエストする親もいるらしいことを知って困惑した。と言っても、その一部始終を、その現場を実際に見たわけではなく、この間の土曜日の朝日新聞に載っていた、益田ミリさんのエッセイを読んで目から鱗だったのだ。ある日益田さんが散歩をしていたら、何処からか「できた、できた、できた」と興奮気味に連呼する声が聞えて来た。何事かと思ったら、小さな子供が補助輪なしの自転車に乗っていた。要するに、その子は初めて一人で自転車に乗れたらしい。まるで自分の事のように感動している声の主はどうやら講師のようだ。なぜ、父親ではないとわかったのかと言うと、同じようなユニフォームを着たスタッフが数人周りに居て、動画を取っていたり、あるいは応援したりと盛り上がっていたからだ。

 まるで人生の一大イベントのように皆で盛り上げてくれるのだから、記憶に残らないはずがない。それにスタッフが子供の凛々しい姿をちゃんと記録に残してくれている。そのビデオがその子の親への「ちゃんと自転車に乗れました」との紛れもない証拠品になる。そうか、今の時代は自転車に乗る練習すらもイベントになり、ちゃんとした商売、いや、この言い方は聞こえが悪い。もっとポジィティブな言い方をすれば、痒いところに手が届く、あってよかった的なサービスである。益田さんんは「料金はどのような設定になっているのだろうか」とか、「乗れたらいくらなのか」だの「それとも時間制なのか」とあれこれ想像して楽しんでいる。

 もちろん、想像するだけに留めておくしかないのだが、私が勝手に思うことは次のようなことだ。この「子供を自転車に乗れるようにする」というミッションは焦ってはいけないのである。その道のプロ?たるもの、子供に不快感を与える行動は慎むべきで、むしろ子供を楽しませる指導を心がけ、自転車に乗れるコツを伝授しなければならない。小さな子供を褒めまくり、おだてて乗ろうと言う気にさせる、いや、自転車に乗れる身体にするのが仕事である。だが、人は十人十色、子供も一人ひとり個性が違う。俗にいう、生まれながらの運動神経というものが自転車に乗れることに大いに影響するのなら、はっきり言って、運動神経のいい子にはこのようなサービスは無駄でしかないのだ。

 そう言えば、人によっては自転車に乗れるのにかかる時間は、一日、いや1時間もあれば十分という話も聞いたことがある。それもあの補助輪付きの至れり尽くせりの自転車ではなくて、何も付いていない自転車の方が早く乗れると言うのだ。そんな運動神経抜群な人の話はさておき、まずは補助輪2つから始まり、次にひとつにして、最後には何もなしで乗ってみると言うのが普通だ。どう考えても、時間がかかる。乗っているうちにだんだん身体が慣れて、そのうち片輪が浮き上がってきて、自然と自転車に乗れていると言うのが能書きなのだが、私の場合は上手く行かなかった。

 嘆き悲しんでいると、兄が、「手っ取り早く自転車に乗れる方法がある」と教えてくれた。その方法は少し痛い目をするけど、絶対乗れる方法だと言うので、騙されたつもりでやってみた。何のことはない、補助輪も何もない自転車でいきなり練習することだった。膝小僧にいっぱいすり傷ができる頃には、どうにかこうにか自転車に乗れていた。もっとも、この時の私は小さな子供ではなく、小学生で、それまで自転車に乗れなかったが、たいして不便を感じていたわけでもなかった。それを良いことにのらりくらりと過ごしていたが、学校で一年に一回ある自転車教室の時は身の置き場がなかった。運動場に信号機が置かれ、俄かに横断歩道が出現する。交差点での自転車の乗り方をおまわりさんに指導してもらうイベントだった。クラスのほとんどの子が自転車に乗れたようで、私のように乗れない子は2,3人だけだった。一人ひとり順番に自転車に乗って、スイスイと乗る姿を羨望の眼差しで見ていたら、穴があったら入りたくなった。本当は学校を休みたかったが、行きたくない理由を母親に言うのが嫌だった。地獄とも思える時間をやり過ごすしかない。

 とまあ、私にとっては自転車と言うのは子供の頃の切ない思い出を連想させる乗り物だ。もっとも今の私は、「自転車に乗れないくらいどうってことないじゃない」と強気なのである。

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