人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

バレンタインあるある?

校門で待ち伏せ、いったい誰を、いや何を?

 先日の青沼貴子さんの4コマ漫画『ねえ、ぴよちゃん』はバレンタインの話だった。1コマ目は椰子彦君が友だちの柳君と校門で誰かを、いや何かを待っていた。恐ろしく感が鈍い私はその日が2月14日だとわかっていても、「いったい何をしているだろう」ぐらいにしか思わなかった。2コマ目は椰子彦君が通りすぎる女の子に視線を向けていた。その時に気づくべきだった。あの子はたしか彼の憧れの人だったが、いかんせん彼の気持ちは彼女には全く通じていなかった。椰子彦君は彼女にとってただの同級生のひとりに過ぎなかった。3コマ目で彼らは先生から『もう帰りなさ~い』と促されている。

 どうして彼らはそんなに遅くまで校門で”粘っていた”のか、いったい誰を待っていたのか。結局のところ、待ち人は来なかったではないか。それでも諦めきれずに、万のひとつに望みをかけていたのだろうか。ここまで考えてもそれが何かが、石頭の私には全然わからなかった。最後の4コマ目でやっと「なるほど、そうだったのか」と合点がいった。要するに、椰子彦君と柳君はチョコを待っていたのだ。奇特な誰かが自分たちを探して、いや、教室で皆の面前で渡すのを恥ずかしくてできなくて、そうっと渡しに来てくれないかと夢見ていたのかもしれない。だが、現実は『今年も一個もチョコ貰えなかったね』と二人で慰め合うしかない体たらく。季節の寒さだけでなく、追い打ちをかけるように心も凍るように寒い。

 二人の悲劇はこの日で終わらず、翌日の漫画では、次の朝登校すると、女子に人気のあるサッカー部のキャプテンの子に出くわしてしまった。何と彼の口元には何やら茶色い物が付いていた。『おい、唇の端に血が付いてるぞ』と椰子彦君が注意すると、彼は臆面もなく、『バレンタインのチョコ、ちょっと食べ過ぎたかなあ』だなんて宣ったのだ。この言葉を聞いた椰子彦君は忘れたはずの昨日の屈辱感が蘇って、またもや不幸のどん底に突き落とされた。

 バレンタインのチョコってそんなに貰えないものなのだろうか。会社では義理チョコというものがあるにはあるが、それは任意で、あげる側の気分に任されている。いつもお世話になっていると感謝している人になら自然とチョコをあげたい気持ちになる、まあ私の場合は。椰子彦君のような中学生ならクラスで何人か親しい女の子のひとりや二人はいそうなものだが、そう言うのはチョコとは関係ないのだろうか。バレンタインを一つのイベントとして捉えて気軽にチョコをあげる、というそういう考えにまでは至らないのかもしれない。それにチョコを買うには資金がいるし、敢えてお金を使ってチョコを買う必要はないかもしれない。ただ、女の子の間で仲がいい子同士手作りチョコを贈り合うのは流行っていると聞いたことはある。だからお金がどうのこうのと言う問題ではないのだ。

 椰子彦君には悪いが、バレンタインのチョコは贈る側の気持ちが少しでも動かない限り貰えないものらしい。たかがチョコ、されど、チョコなのだ。そう言えば、以前新聞に『義理チョコも立派なコミュニケーションの手段のひとつ』という主旨の投稿が載ったことがあった。投稿の主は確か30歳の会社員の女性で、入社以来ずうっと同期の仲間の男性たちにはチョコをあげていた。ところが去年は誰かが「そんなことする必要ないんじゃない」と言い出したので、あげるのをやめた。ところが、仲間のひとりの男性から、「チョコを貰えなくて、寂しかったよ」と言われてしまった。たかが、チョコぐらいという勿れ、世間であることないこと言っていると言う勿れ、人間だからやはり貰えば嬉しいに決まっている。

 それにバレンタインのようなイベントは仲間とのコミュニケーションにも大いに役立つとその女性は言いたいのだ。何も”本命チョコ”でなくても、義理チョコで十分なのである。軽い気持ちで、これからもよろしくとの気持ちを込めて、今年はチョコを贈りたいと書いてあった。

mikonacolon