人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

町のパン屋の閉店

4年も続いたことに、驚きを隠せない

 小さな町のパン屋が閉店した。そのことを知ったのは、たまにしか行かないスーパーに立寄る機会があったからだ。そのパン屋は地元に昔から根を下ろしたスーパーのすぐ側にあった。オープンしたころは確かにパン屋だったが、ここ一年ぐらいは、途中で、シフォンケーキの店に変わっていた。ガラス張りの店内は通りすぎるだけでも、一目瞭然で、ショーケースの中にある品物が売れているかどうかがよくわかった。パッと見ただけでも、あまり売れていない。パン屋だった頃は、小さな入口のドアを開けるお客の姿を目撃したこともあったが、最近ではそれもなかった。

 あの日、私がその店の前を通りすぎようとしたとき、何やら張り紙があるのに気づいた。あれ、なんだろうと、近づいてその貼り紙に書かれている文字を読んだ。「閉店のお知らせ 4年間の短い間でしたが、ありがとうございました」。ああ、ついにこうなったのか、というのが、私の正直な気持ちだった。最初のパン屋ではダメなので、路線を変更して、シフォンケーキで店を再生しようと試みたが、上手く行かなかったというわけか。でも、4年も続いたのかということが、こちらにとっては奇跡のように思われる。

 そもそも、今の世の中において、個人経営のパン屋なんて、まさに絶滅危惧種と言える。かつては超人気店で、一日中客足が途絶えなかった店がコロナ禍で、閉店という憂き目に追い込まれた例を何軒も知っている。いや、別に、閉店の主な原因がコロナ禍だと言うわけではなく、パン屋の存在自体が希薄になっているからだろう。何しろ、コンビニに行けば安くて、美味しい?パンは五万とあるのだから、わざわざパン屋に行く必要もない。コンビニのパンとは比べ物にならないくらいの差をつけた商品でなければ、消費者は納得しないのかもしれない。

 そんな時代にあって、ある意味このパン屋は勇気ある挑戦者だったのかもしれない。少なくとも、私は自分勝手にそう考えた。その地区のスーパーの近くにあって、人が集まるから、買い物のついでに立ち寄ってパンを買う、そんな行動が自然と頭の中に出来上がった。私もどれどれ、どんなパンがあるのだろうと覗いてみた。しかし、そこのパン屋な超極狭で、人がひとり入ればそれでもう一杯になる。無理矢理入るのは憚られるので、前の人の買い物が済むまで外で一旦待つことになる。ここのパン屋の売りはフワフワ食感の食パンで、ウインドーに写真が貼ってあって、一個350円だった。耳まで柔らかいという宣伝文句に惹かれて買ってみると、食べてみたら、なるほど能書き通りだった。でも、待って、何かが足りない。いったい何が?二度ほど買ってみて、この食パンには食べたときの「美味しい」という快感がないことに気付いた。要するに、単なる生地が柔らかいだけの食パンで、それ以上でも以下でもないので、すぐに飽きがきた。

 では、他のパンはどうかと言うと、これまたスーパーに置いてあるパンの生地とは一線を画していた。どういうことかと言うと、この店のパンの生地はすべて、弾力があって、口に中に入れると、まるでガムのように噛む必要があった。なかなか噛み切れないので、変な言い方だが、のみ込むまでに時間がかかった。この生地を好きな人にとっては味わい深い至福の時間かもしれないが、私にとっては地獄だった。それでも、3,4回はこの店のあらゆるパンを買って試してみたが、散々な結果に「この店のパンは金輪際かわない」と決心した。ある時、店の前を通りかかったら、「この店のパンって美味しいのですか」と見知らぬ人から尋ねられた。私は正直困惑した。自分の本当の気持ちを言おうか言うまいかと。だが、もし本当のことを言ったら、目の前の人は店に入ろうとはしないだろう。となると、私がしようとしていることは営業妨害なのではないだろうか。なので、「人の好みは様々ですが、私はこの店の○○(商品の名前)が美味しいと思いますけど」とだけ言うにとどめた。因みに、○○はこの店のパンで唯一私がまともに食べられるパンだった。 

 それにしても、あの店は、久しぶりだから、「パンでも買おうか」とさえ思えない店だった。それは、パンがまずいからではなく、パンの生地が好みではなかったからだと、この際だからはっきり言っておこう。

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