人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

個人商店の閉店

時代の流れと諦めるしかないが、寂しい限りで

 韓国文学の翻訳家の斎藤真理子さんが、ある日の日経のコラムで『近くの商店街で、こんどはカバンのお店が閉店してしまった』と歎いていた。商店街があるからこそ、今の場所に住んでいるにもかかわらず、次々と個人商店が閉店していくことに、何ともやるせない気持ちを吐露していた。私も自分の周りを見渡してみると、今まで気にしないように努めてきたが、昔からの店が全て姿を消してしまったことに愕然とする。”去る者日々に疎し”と肝に銘じて、考えないようにし、気をそらして毎日を送っていたが、斉藤さんの嘆きに敏感に反応してしまった。

 仕方がない、この世の中に変わらないものは何もないのだから、などと自分を騙し騙しして生きていくしかない。考えてみると、どれだけ沢山の物を、いや、ささやかな楽しみを失ったのだろうか。今の私には、頑張ったご褒美に何かを、例えば、あれを買って食べよう、という唯一無二の物が何もない。断っておくと、私の場合は花より団子なので、自然と食べ物優先になる。思えば、もう何年も個人経営のパン屋に行ったことがない。というより、近所はもちろん、都心でさえもたやすくは見つけられないからだ。 近所にあったパンやお惣菜を売る店は、いつも客で溢れていたにもかかわらず、閉店してしまった。その店がいつまでもあると信じて、たまに利用していた私は、その店が無くなって初めてその大切さに気付いたのだ。時すでに遅しというほかない事態だが、人は、特に私などは、わがままで、気まぐれな生き物だ。

 となると、ここは失ったものを懐かしむのではなくて、またお気に入りの何かを探せばいいと考えた方がよさそうだ。前だけを見て、希望に満ちた生活をしようと決心したものの、満足のいくものは何ひとつ見つけられないのが現実だ。例えば、以前は甘いものが好きだったはずなのに、今は買ってまで食べようとは思わない。いや、そうではなくて、かつてはお気に入りのケーキ屋があったのだが、そこのケーキがある日突然いつもの味ではなくなったのだ。不思議に思って尋ねてみると、職人さんがやめてしまって、別の人が作っていた。そのため、いつもの味が出させないらしい。いつもの味が恋しいのだから、自然とこちらはその店から足が遠のく。

 それからは遠目にその店の様子を窺うようになった。しばらくすると、その店は改装され、店内でもお茶とケーキを楽しめるようになった。だが、客の入りは今一つのようだった。一度どんな感じなのか見てみたくなって入ったことがあるが、以前よりはケーキの種類も少なくて、ここで買いたいと思わせる魅力に欠けていた。その時幻滅した私は、その店のことはすっかり忘れてしまった。久しぶりに通りかかったら、小さなイタリアンレストランになっていたが、なんだかパアッとしない店で、それだからか客もいないようだ。現在はどうなっているのだろう、最近は行く用もないし、もう気にならなくなっている。ただ、確かなことは、店が無くならなくても、突然お気に入りの物を無くす可能性もあると言うことだ。

 またパン屋の話だが、その店は5階建てのビルの一階にある小さな店だった。パンの種類は多くはないが、午後になるとすべて売り切れになる人気店だった。このビルのオーナーが店主なので、絶対にこのパン屋が無くなることはないと思っていた。オーナーの奥さんも別の階で会社を経営していたし、店のウインドーには「パン職人になりませんか。パリでの研修制度もあります」との貼り紙もあって、積極的に人材を募集していた。実に魅力的な文句だと感心し、本気でやってみたいと思う人にとってはまたとない機会である。ところが、ある日店の前を通りかかって、仰天した。なんと、このパン屋の店主からの挨拶状が貼ってあって、「この度、パリに修行に行くことになったので、閉店することになりました」と書いてあるではないか。と言うことで、お気に入りのパンと悲しいお別れをすることに相成ったのである。

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