人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

感染症は人間関係をズタズタにする

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▲近所にある栗の木。これから栗の実が色づくのが楽しみと思っていたら、ふと足元を見てびっくり。なんと、そこには夥しい数の栗の実が落ちていたのです。栗のトゲトゲが青々しているのに、周りには茶色い栗の実が散らばっていていました。

田舎なのにコロナにピリピリ

 以前コロナ禍で田舎の法事に行くのをやめたことを書きましたが、後で電話でその時のことを聞いて「ええ~?どうして?」と正直戸惑ってしまいました。県をまたいで移動しなければならない私はともかく、車で1時間もあれば行けてしまうのに欠席者が多かったからです。辺鄙な田舎で感染者などいるわけもなく、いつもとなんの変りもない静かな暮らしをしているはずでした。「感染者が出ているのはあくまで都心で、こっちはあまり関係ない」と言っていたわりには、予想外の実態でした。驚くべきことに、法事に来た人はわずか二人であとの人は適当な言い訳をして来なかったのです。70代以上の人が大半なのですが、注目すべき理由は「運悪く転んだりして病院に行くのはイヤだから」という本音です。コロナと無縁のように見える田舎であっても、「この時期病院に行くのは避けたい」、つまり感染が怖いのです。病院といっても近くには市民病院がひとつあるだけで大きな病院は都心に行かなければなりません。だからできるだけ不要不急?の外出を控えているわけですが、それにしても体力の衰えや精神面が心配になります。

 それに毎日のようにメディアが「高齢者の重症化」という情報を流しているので、高齢者が身構えるのも当然といえます。そしてあろうことか、一人が行かない判断をすると「同調圧力」というのでしょうか、周りもつられてしまうのです。第三者から見ると、これは明らかに人間関係の寸断のなにものでもありません。何年かに一度の法要は親戚同士の交流の貴重な機会なのです。その機会さえも奪ってしまうコロナは、いつしか人間の心までもズタズタにしてしまうのではという懸念があります。今話題になっている「コロナの時代の僕ら」の著者パオロ・ジョルダーノによると、「感染症とは、僕らのさまざまな関係を侵す病だ」そうです。

意欲ある高齢者はそれでも行きたい

 田舎の法要の話に戻ると、大半の高齢者が欠席する中でも82歳になる叔母は車でやってきました。「人は絶対に乗せない」という家族との約束を守って今でもハンドルを握っています。コロナ前は社交的で夫亡き後の気儘な生活を謳歌していました。そんな彼女も感染が怖いのか公共交通機関の電車を避けて安全な車を選びました。コロナ禍の中でも「どこかへ行きたい」という欲求は消えることなく、「東京の○○に行きたい」とか平気で言って私を困惑させます。たしか、以前は「もう行きたい所には行ったのでもういいわ」と言っていたのに、コロナでこのまま自分の人生が終わったらと思うと「行かなきゃ」なのです。

 言っておかなければならないのですが、叔母は年の割には若く見えるし、私なんかよりもスタスタと歩きます。100まで生きるのは叔母のような人といつも思っている私などは、「何もそんなに焦らなくてもいいのでは!」と内心思ってしまうのです。「コロナの終息までにはあと数年はかかるらしいよ」と現実を指摘すると「そんなこと言ってたら私はもうこの世にいないかも」なんて爆弾発言が飛び出すのです。だから叔母は政府が「もう行ってもいいですよ」とOKを出したら、いの一番に旅行に行ってしまう人だといえます。

 先日の新聞によると、ある有名なリゾートの社長は余裕で1年後を見据えています。今はコロナで時間とお金がある人は旅行に行くのを我慢している。コロナ後はそのうっぷんが爆発するはずだから、これからについては何も悲観はしていないのだと。人間の我慢も長引けば必ず限界が来るのだという考えからですが、果たして社長の予想は当たるのでしょうか。

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