人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

「何もしない」に違和感

 

 

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家事も子育ても仕事、「何もしない」はありえない

 昔、何かの集まり、それが結婚式だったのか、葬式だったのかは覚えていないのですが、久々に親戚同士で会う機会がありました。その時に私の兄がある一人の男性に「○○さん(男性の奥さんの名前)は元気?」と聞きました。こんな時普通なら「元気でやっていますよ」とでも言うのですが、彼は違いました。「相変わらず、何もしないよ」とはっきり言ったのです。彼は幼馴染の仲の良いうちの兄だからこそ、そんな愚痴を言ったのかもしれませんが、私の知る限り彼の妻は「なにもしない」人ではありません。台所ではテキパキと料理を作り、そつなく掃除をする、気遣いがあって優しい人なのです。

 初めて彼女に会ったのは親戚の家で、たしか彼女は赤ん坊を抱いてミルクを飲ませていました。その傍らにはまだ幼い女の子二人が遊んでいました。子供が3人も居たら体力的にも大変なのでしょう、その時の彼女はほっそりしていた印象があります。そう言えば、あの時も夫である男性が「何もしない」と言っているのを聞いた覚えがあります。その時は「なにもしない」という言葉は私の頭の中をただ通過しただけでした。馬耳東風で片方の耳から入った言葉が何の感情を巻き起こすわけでもなく、もう片方の耳から出ていくのです。つまり、「何もしない」という言葉に込められた意味を考えようともしませんでした。それはあくまで他人の家のことだからで、干渉する権利などないし、それぐらいのこと?で波風を立てたくなかったからです。

 それによく話を聞いてみると、朝ごはんは夫が作っているのでした。それにはちゃんと理由があって男性は仕事柄朝が早く、5時には家を出なければなりません。初めは小さな子どもを3人も面倒を見ている妻がどうにかこうにか朝起きて食事の用意をしていました。でもそのうち、自分でやった方が都合がいいことに気が付いたのです。眠そうな目をして起きて来る妻を見ていて気の毒だと思ったからです。それで自分の分を作るついでに家族の分も作るのが習慣になりました。それなのに、心のどこかでは不満を抱いていたのでしょうか、本来は家事は妻の仕事という固定観念がやはりどこかにあるのでしょうか。私が想像するには、家事も子育てもやって当たり前のことであって、仕事とは言えないのです。

 彼の言う仕事とは対価を払ってもらえる、つまりお金を貰える行為のことを言うのかもしれません。やって当たり前のことに価値がないと考えるのだとしたら、彼の妻は「何もしない」人に相当します。朝ご飯ぐらい作って当たり前なのにそれをしないのですから、「何もしない」人なのです。でも考えてみると、乳飲み子を抱えて睡眠不足に陥っている人にそこまで要求するのは酷ではありませんか。意外に思うかもしれませんが、彼ら夫婦は仲が悪いわけではありません。むしろうまくやっているだと思います。夫婦間にたいして諍いが無いのは、おそらく妻の鈍感力が功を奏しているのかもしれません。 

 現在は子供たちも成人して、妻はパートの仕事をしているようですが、それでも依然として「相変わらず、何もしない」なのです。今まで考えたこともなかったのですが、夫の「何もしない」発言を終わらせるのにはどうすればいいのでしょうか。例えば、妻が夫の給料と同じくらい稼ぐことができたとしたら、もう「何もしない」とは言えないのでしょうか。まさか直接尋ねてみることもできないし、だいだいが他人のことにそれほど関心があるわけでもないのです。まあ、どうでもいい事だったのですが、ふと気になったのです、それって人として尊重されていないのではないかと。今流行りの言葉でいえば、パートナーとして認めてもらえていないわけです。

 「何もしない」発言のおかげで、やって当たり前のことだって、立派な仕事といえるのではないかと気づかされました。外に出て働くだけが仕事ではないのです。

 

mikonacolon