人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

宿題があるのに、やる気が出ない

今週のお題「やる気が出ない」

f:id:mikonacolon:20210514150915j:plain

宿題をやりたくないのにはそれなりの訳があって

 子供の頃、通っていた小学校では毎日のように宿題が出ました。当然それはやらなくてはならないことで、まさかやらないなんて選択肢はありませんでした。もし、やらなかったり、宿題のノートを忘れたりしたら面倒なことになるからです。教室の後ろに立たされ、みんなの目に晒されて後ろめたい気持ちになるのがわかっているからです。勉強は私にとって無理やりやらされるものでした。「人間は本来怠け者なので、人から強制されないとできない」などと言われていた時代でした。だから宿題もみんながするもので、やるのが当たり前のものでした。

 今思うと、そのおかげで、漢字も書けて読めるようになったし、九九を使った簡単な計算もできるようになったのです。その点から言うと、宿題は毎日あった方が知識は身に付くと思うのです。もっとも、その考え方には「勉強は楽しい」という気持ちは微塵もありません。ではどうしたら、どういう状況なら勉強が楽しいと言えるのか、全く分からず不思議でしかありませんでした。

 最近、ようやく「勉強が楽しい」というその言葉の意味が理解できるようになりました。今まで知らなかったことがわかって感激したり、できなかった計算ができるようになったりすることが楽しいのです。学校の授業で興味を持ったことが、将来の職業につながることも大いにあります。昔のようにやらされ感だけではなく、何か自ら学ぶ姿勢を持つことだって可能なのです。今は小学校も教育方針が多種多様で、教科書がなかったり、宿題が出ないところもあります。コロナ禍にあっては子供にも自立を促しているように思えてなりません。今までのような、学校に行って大人しく席に座り、先生の言うことを聞いているだけではダメなようです。正直言って、私などはもし今自分が子供だったらと想像すると、どうしていいかわかりません。大人だけでなく、子供も大変な時代に生きているのだなあと実感するのです。

 さて、宿題の話に戻ると、夏休みの宿題はいつも先生から、「計画を立てて早めにやりましょう」と言われます。でも家にたくさんの荷物を持ち帰って放り出した途端、そんなことはすっかり忘れてしまいます。1カ月以上もあるのだから、いつかやればいいだろうという頭があるので、やる気が出るわけがないのです。しかし、その「いつか」は必ずやってきます。朝寝坊し放題の楽ちんで楽しい夏休みモードが一変してしまう事態です。それは8月の終わりの最後の週で、だんだんと焦り始め、親に当たり散らします。その結果、冷や汗はかくのですが、9月の始業式には何とか間に合わせるのでした。わかってはいても宿題を計画的にやることは不可能で、何度も修羅場を繰り返す、それが私の夏休みのいつもの風景でした。

 そんな私も、わざと宿題をやっていかなかった経験があります。もちろん、普通ならやるのですが、その時はどうしてもやる気が出なかったのです。というよりもやりたくなかったというのが本音でした。つまり先生への抗議のためでした。宿題は漢字の書き取りで簡単なものでした。でも私の中ではその先生に対する不満が溜まりに溜っていて、それが一気に噴き出したのです。特に先生が勉強ができる子をものすごく褒めるのに、できない子には容赦ない態度をとるのを見ているのが嫌でした。それは一見すると生徒のことを考えてのことだったのかもしれませんが、先生の熱心さは生徒には伝わっていなかったと思うのです。その子は延々と続く叱責に涙をポロポロ流していたからです。

 先生のやり方に不満を持っているは私だけではありませんでした。それである日友達と抗議するために、宿題はやって行かないことにしようと約束したのです。でも、実際は宿題をやってこなかったのは私だけで、友だちはちゃんとやってきたのでした。理由を聞いたら、「そんな勇気はないし、冗談だと思った」ともっともな発言をしました。一瞬「裏切られた」と思ったのですが、よく考えたら、どうかしていたのは私の方なのかもしれません。彼女の取った行動は正しかったのです。でも、あの状況に置かれたら、抗議しようにも何もできない子供は無力でしかありません。大人のように「そんなことをして何になるの?」などと深く考えることもなく行動しました。思慮が足りないと言えばそうなのですが、いかにも子供らしい発想だなあと懐かしく思うのです。

mikonacolon