人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

「つくしが気持ち悪い」に仰天

 

つくしを摘みに行くのが嫌な理由とは?

 前回、実家の義姉のミチコさんから地元にある公園のことで、電話があったと書いた。その際ついでにどうしても聞きたいことを尋ねた。それはつくしのことで、メッセージにも「つくしを今煮ていたところ」だとあった。去年出遅れたせいか、今年はずいぶん動きが早いねというと、ミチコさんはつくしを料理するまでがどんなに大変か延々と語った。つくしを摘むのは無我夢中だから疲れないし、後からどっと疲労が押し寄せてきてもまあ許せる。それよりもはるかに大変なのは、つくしの下処理だ。つくしを料理したことなどなくて、子どもの頃はただ単につくしをごっそり取ってきて、戦利品の多さに純粋に喜んでいただけの私は、こう聞き返した、「つくしのあく抜きとかが大変なんでしょう」と。

 だが、そんなあてずっぽな私の発言は的外れで、ミチコさんの言いたいことは違った。まずは採ってきた大量のつくしに付いている枯葉や雑草を取り除く。こう書くと簡単なようだが、実はこれが予想以上に時間がかかるようだ。時には嫌になるくらいだが、根気よくやるしかない。その後、つくしの茎に付いているハカマを外すのだが、これも忍耐がいる。ハカマは茶色とベージュの模様になっているレースのようにも見えるが、あれは1本のつくしに3,4個は付いているのでこれもまた面倒な作業だ。さて、なんとか全ての作業を終えると、やっとつくしを煮る準備に取り掛かるのだが、ミチコさんはここまでの作業をこう表現した。「ざっと見積もって、時給で言うと、3千円!?くらいかなあ」。

 つまりミチコさんが言いたいのは、それくらい骨の折れる仕事だと言うことで、それならやめておけばいいのと口から出そうになったが、さすがに言えない。要するに、ミチコさんはそんなに近所でもない川の土手につくしが生えるのを毎年楽しみにしていて、待ち望んでいた通りつくしが群生している光景を見たら、摘まずに帰るなんてことはできない人なのだ。「私はつくしの卵とじが大好きなの」と公言している。なので、花より団子で、旬のつくしを味わい尽くそうとするあまり、疲れも忘れて、面倒だとわかっている作業に励んでいるというわけだ。

 出遅れて、旬のつくしを見逃した去年とは違って、今年はつくしの卵とじも作ったし、他につくしだけを味付けした総菜も作ったと声を弾ませる。驚くべきことに、ミチコさんはすでに3,4回もいつも行く川の土手につくしを採りに行っていた。その度に疲れた、疲れたと言いながら黙々とつくしの一連の作業を繰り返していた。想像するに、ミチコさんが収穫したつくしの量は凄いことになっているはずだが、それでもつくしは底なしのようで、無尽蔵に生えてくるようだ。

 ミチコさんは「本当はもう1回ぐらい摘みに行ってもいいんだけど・・・」と言葉を濁す。私には躊躇する気持ちがわからないので、何の考えもなしに「いったいどうしたの?」と尋ねた。すると、そのあまり行きたくない理由に目から鱗になった。何と、ミチコさんは、「つくしの頭がギョロギョロした、まるで人間の目のように思えて、気持ち悪いから」などと宣った。「なんて、贅沢な環境なの!?」とこちらは呆れるしかない。草むらの中からつくしの頭がウジャウジャと出ているのが見えて、恐ろしいと言うより気味が悪いと言いたいのだ。なので、つくしはもっと採りたいが、あの気持ち悪い景色をできる事なら見たくないということらしい。

 ミチコさんは採ってきたつくしを独り占めすることはせず、友だちにお裾分けしようと電話した。その時は「何もしなくて、そのままだけどいい?」と断ったにもかかわらず、やはりそれでは悪いとせっせとハカマを採る作業に没頭した。つくしは自然のものだから、本来はタダなのだが、そのタダのものを友達にあげようとしたら、とんでもない代償を払うことになった。まあ、本人が好きでやっていることなのだから、それはそれでいいことなのだが、それにしても、つくしの旺盛な生命力には圧倒されずにはいられない。

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