人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

時差の不思議と困惑

「1時間が一瞬にして消えた」感覚

  先日新聞の『海外だより』というコラムを読んでいて、初めて知った、米国にも時差というものがあることを。このコラムの執筆者は出張帰りに米国南部のジョージア州アトランタにあるキング牧師の生家に立ち寄った。キング牧師と言えば、「アイ・ハブ・ア・ドリーム(私には夢がある)の演説で有名で、生涯を黒人差別にささげ、若くして亡くなった方である。だが、現地に車を止めた瞬間、スマホの画面に目をやると午前10時だった。これはおかしい。確かホテルを出る時はまだ午前8時で、カーナビが示す所要時間は1時間だから、午前9時でなければならない。それですぐに気が付いた、自分はアトランタの隣りの州のアラバマ州から来たことに。1時間の時差があったことに気が付いたものの、そうなると帰りのアトランタからの便のことが気になった。それで、結局、生家の見学は諦めて泣く泣くその場を立ち去った。今度はもっと時間の余裕を持って訪問しようと思ったそうだ。

 この記事の中で、筆者は「瞬時に1時間を失い」と書いているが、実際には時間が勝手に消えるわけはない。それに時差をそんなふうに捉える感覚は初めて聞いたような気がする。私にとって時差はあくまで約束事で、必ず帳尻が合うものだった。例えば、私はコロナ前はフィンランド航空でヨーロッパに行っていたが、ヘルシンキと日本とでは7時間の時差があるので、現地に着いたら、時計を7時間巻き戻していた。最初はなんだか一日得をしたように思えたが、何のことはない、帰りはその逆をやるのだからプラスマイナスゼロで、なあ~んだ、そう言うことかと合点がいった。考えてみると、時間は消えたのではなくて、ひとまず預かってもらっていると考えた方がよさそうだ。なぜなら元の場所に帰ってくれば、必ずその預かってもらっていた時間は取り戻せるからだ。何で時差なんて面倒なものがあるのか、なんて考えてみたことなどないので、とにかく飛行機の時間とか列車の時間とかには敏感になる。空港や駅構内ではいつも時計を探し、自分の腕時計と合っているかどうか確認しなければ安心できない。

 それでも次第に慣れてきて、それが当たり前になってくる。以前フィンランドからフェリーでエストニアのタリンに行き、そこからバスでサンクトペテルブルクグに行ったことがある。その時は時差が1時間あったので、時計を1時間早めた。サンクトペテルブルグまで8時間かかると聞いていたが、実際は7時間もかからなかったし、車窓を眺めていたらあっという間だった。トイレ休憩も何度もあったし、見るもの聞くもの何もかもが珍しいので、時間が飛ぶという感覚に近かった。

 時差に慣れているつもりの私にも失敗はある。スペイン最南端のアルへシラスからフェリーでモロッコのタンジェールまで行った。そこで1泊し、翌日はバスでショウシャウエンへと向かった。ショウシャウエンは青の街として有名で、世界中から旅行者が押し寄せる人気の観光地だった。そこへ行くのを日本を出発する2週間前に急遽決めたのは、アルへシラスでのくじらウォッチングがもうやっていないとわかったからだった。それまでの私にとって、アフリカ大陸は未知の場所で敷居が高い場所だったが、もしもチャンスがあれば行って見たいとは思っていた。そして、願ってもいない機会が突然訪れた。地図を見てみたら、アルへシラスのすぐ向こうにはアフリカ大陸があるではないか。これは行かない手はない。

 フェリーに乗るにも散々待たされ、疲れ切ったところでやっと乗れて一安心。バスに至っては溢れんばかりの人たちがバスターミナルで待ってはいるが、バスはなかなか来ない。日本とは一線を画したような、時間があってないような世界があることに目から鱗だった。要するに乗り物に乗れるだけでも幸運だと思わなければならないのだ。異邦人の私はきっとそんな光景を目にして、大事なことをすっかり忘れていたのだろう、つまり時差があることを。ショウシャウエンの小さなホテルを出発する日の朝、まだ9時だから近所を散歩しようと思った。私が歩き始めると、すぐに宿の主人が追いかけてきて、「もう時間なのにどこに行くんだ?」と尋ねた。それで、時間があるのでちょっと近所を歩こうと思ってと言ったら、「何を言っているんだ、もう11時なんだよ」。これには慌てふためき、すぐにタクシーを呼んでもらってバスターミナルへと急いだ。乗り物に乗るミッションがあるときはさすがに2時間の時差は恐ろしい。

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