人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

徳を積む人

皆にとって都合のいい女とばかり思っていたら

 実家でひとり暮らしをする義姉のミチコさんが来月白内障の手術をすることになった。通っている眼科は市役所のすぐ傍にあって、家から車で5分の場所にある。車での移動が当たり前になっているので、ミチコさんはたいして気にもしなかった。だが、眼科の先生から車で来院を禁止されて、とたんに困ってしまった。自慢にもならないが、1時間に1本しかバスは走っていないし、バスの停留所に行くにしても15分も歩かなければならない。眼科の先生の話では、5回ぐらいは通院しなければならないと言う。となると移動手段はタクシーを呼ぶしかない。楽天家のミチコさんはすぐに「まあ、タクシーでもいいか」と思うことにして、あれこれ考えるのをやめた。

 ある日、仲良くしている友人と食事をしていた時に、白内障の手術のことを話した。すると、友人は「それくらいなら私が送り迎えしてあげるから」と言ってくれたので仰天した。「でも5回もだから悪いからいいよ」と断ろうとすると、「いつも車に乗せてもらっているから」と言われてしまったので、お言葉に甘えることにした。そうなのだ、ミチコさんはいつも運転手の役目を担っていた。そもそもミチコさんの住む地域において車の運転ができないのは、中国ドラマの”禁足”のようなもので、自由がないのと同じ意味を持つ。お婆さんたち、いや老婦人たちは毎日家で退屈?しているらしく、皆どこかにランチを食べに行きたいらしい。だが、悲しいかな飲食店は近所にあるわけもなく、歩いて行ったら気が遠くなるような距離である。車で行くという選択肢しかない。わざわざタクシーを呼んでまでして出かけたくはないし、それにそんなことをすればご近所に体裁が悪いからできない。本当のことを言うと、タクシーは高くつく。美味しくて格安のランチを食べるのにタクシーを使っていくなんて、本末転倒ではないかと誰もが思うのだろう。

 そんなとき、頭の中に浮かぶあの人、それがミチコさんである。あの人ならお願いすれば、誘ったら絶対断らない人だからだ。当のミチコさんは自分のことを「どうしても断れない人」で「相手に悪いと思ってしまって、断る勇気がない人」と自覚している。皆車に乗せてもらいたくて、自分を誘うのだとわかっていても、いいように使われているのだとわかっていても、それでも「まあいいか」と承諾するのだ。ミチコさんからしたら、「どうせ自分もどこかに食べに行きたいし、一人では楽しくないからついでだと思えばいい」との考えから誘いに応じていた。それで、自分は皆にとって都合のいい人であり、いいように使われてしまう人だと思っていて、それでもいいと気にもしなかった。

 だが、今回の白内障の手術の件ではまさか、まさかの展開に感激してしまった。そんな”鶴の恩返し”のような見返りを求めていたわけでもないので、友人の申し出に自分の耳を疑った。私が思うには、今までミチコさんはいわゆる、”徳を積んできた人”なのだ。意味合いは少し違うかもしれないが、ボランティア精神といってもいい姿勢でもって人と付き合ってきた。誰や彼やの無理ともいえるお願いも嫌々でも受け入れてきたからこそ、今回友人から有難い申し出をして貰えたのだ。

 運転手として、アッシーとしての役割にミチコさんは私にはこんなことを言うこともある。「乗せて行くと皆必ず私の分を払ってはくれる。でもそれはいつも安いものだから、ガソリン代にもならないことが多いのよ」。だがその一方で、「食事代が高い時はなんだか心苦しいから自分で払うことにしている」とも言う。自分が車に乗せてあげているのだからといって、やりたい放題するわけにもいかないと気を使っているのだ。つまり、人に奢られて借りを作るのが嫌だし、なんだか居心地が悪いと感じてしまうのだろう。それでも電話でお誘いがあれば、もちろん喜んで出掛けて行く。皆年金暮らしで、中には裕福な人も居るにはいるが、限られたお金で食事を楽しみたいと思っていて、それはミチコさんも同じなのだ。だから、社交的な性格のミチコさんはアッシーとしての役目を、これもひとつの”お付き合い”だと楽観している。

 冗談で、「これからはお金を取ろうか」と商売のようなことを言いだした時もあるが、すぐに「それじゃあ、ギスギスして楽しくない」と却下した。自分のやっていることを真剣に突き詰めて、今流行りのコスパなど考えない方が身のためなのだとよくわかっているのだ。

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