人生は旅

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うけいれるには

▲フランス人作家クララ・デュモン=モノさんの著書『うけいれるには』

最初は好奇心から、読後は優しさに包まれて

 この本は日本の学生が選ぶゴングール賞を受賞した作家クララ・デュモン=モノさんによって書かれた。日本でフランス語を学ぶ学生から絶大な支持を受けたこの小説のテーマは障害のある子どもとどう関わるかということだった。自然豊かな山間の村に暮らす一家にある日障害を持った子供が生まれる。その子は生まれつき、目が見えないし、あるくこともできない。さて、そんなとき、一体どうしたらいいのだろう、両親やその子の兄や姉はどう思うのだろうか、あるいはその一家の暮らしはどんなことになるのだろうか。などと言った疑問が私の頭の中を駆け巡った。要するに、ふとした好奇心から、色眼鏡的な見方から、知りたいという感情が湧いてきたにすぎない。皆平等に生きるだの、博愛精神とは縁遠い、ふざけた、覗き見的な出来こころに支配されていた。

 そもそも、私がこの本のことを知ったのはある日の新聞の夕刊で、著者のクララさんが来日したのを記念してのインタビュー記事だった。クララさんはこの本のテーマについて哲学者のような発言をされていて、浅薄で思慮深くない私には到底理解できなかった。その時の戸惑いと鬱屈した感情が、どうせなら、この本でも読んでみようか、的なな気持ちにさせたに違いない。そしてそんな気まぐれともいえる感情を後押ししたのが最近利用しだした図書館のネット予約だった。いつものように「あるわけないけど、一応検索でもして見ようか」と図書館のサイトの図書名の欄に「うけいれるには」と打ち込んだ。するとたいして期待などしていなかったのに、ヒットし、おまけに誰も借りていないことが分かった。思わず「意外と役に立つじゃん、図書館!」と叫び、大いに興奮した。わざわざ書店に捜しに行かなくても、自分の家に居ながらにして、本を探せる、しかもタダで読めることの幸福感で満たされた。

 だが、考えてみると、書店で本を買わないのは書店を困窮状態に追いやることにもつながるので、正直複雑な気分だ。それはさておき、この『うけいれるには』は今の時代に合った、”誰ひとり取り残さない社会”を目指す今の世の中に不可欠な本だと思うのだが、人気がないことに首をかしげたくなる。新聞に記事が出たことで、一人でもこの本を知って読んでくれる人が出てくることを願っている。ただ、昨今は新聞を読まない人がほとんどだし、またクララさんの記事が出ていたのがマイナーな新聞だったから、どうなのだろう。私が取っている日経や朝日は一切この本のことには触れていなかったから。きっと、テレビやネットで誰かがコメントしてくれれば、情報は見る見るうちに拡散するのだろうが。それを証拠に、図書館の予約ランキングの上位はメディアで話題になっている本ばかりだから。

 この本は、障害がある子供について、その子の兄である長男、姉である長女、その子が亡くなった後に生まれた末っ子の視点から書かれている。第一章は長男の弟である子供への思いが綴られている。長男は子供が生まれてすぐは全く関心を示さなかったが、ある日突然弟を可愛がるようになる。だが、赤ん坊の頃はまだ扱いやすかった子供がだんだんと両親の手に負えなくなり、ついには遠く離れた施設に入れなくてはならなくなる。その時、長男は寂しさから、もう子供に会えない辛さから、子供の存在を拒むようになる。長男は子供に会いたいにも関わらず、子供に会いに行こうとはしなかった。だが、子供が10歳になったとき、施設から子供が亡くなったとの知らせが届く。

 訃報を知った長男は雷に打たれたように後悔の海に突き落とされる。大人になって、立派な社会人になってもまだ闇の中に居るというのだから、驚かされる。それくらい子供の存在は子供がいなくなっても長男の生活に影響を及ぼしていた。一方の長女は、最初から子供のことを拒否していた。なぜかと言うと、長男があまりにも子供にかかりきりになり、自分のことを構ってくれなくなったからだった。長女は子供が嫌いだったし、子供に嫉妬していた。兄を取られたから当然だった。それでも最後には子供の存在を認め、姉として愛情を注ぐ。彼女は長男と違って子供の死を知っても冷静だった。

 特筆すべきは第三章の末っ子の視点から書かれた文章で、私にとっては目から鱗だった。こんな見方あるの?こんな考え方あるの?と末っ子のまだ見ぬ子供への思いに心洗われる思いがした。完璧な子供なのに、兄へのその優しさはいったいどこから来るのだろうか。僕は生まれてきてよかったのだろうか、と両親と子供を気遣うその思慮深さに感銘を受けた。

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