人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

井之頭公園の思い出

今週のお題「好きな公園」

行ってみたら、自分の中の公園のイメージが変わった

 まだ若い頃、私は東京に住んでいて、そこで知り合った友だちと楽しい毎日を過ごしていた。あの頃は将来への不安もあったが、それも一瞬のことで、今から思うとものすごく自由だった。実をいうと、私が育ったのは田舎で、しかも小さな村なので世にいう”公園”というものはなかった。ではどこで遊んでいたかというと、村の外れの神社の空き地とか、あるいはどこかの家の竹藪だった。実際、見渡す限り田んぼや畑ばかりだったが、竹藪もあちこちにあったので、遊ぶ場所には困らなかった。地平線が見えそうな景色の中で、ひときわ目立っていたのは小学校の3階建ての校舎だった。小学校の運動場はもちろん土で、雨が降るとすぐにぐちゃぐちゃになった。今はどこの学校もコンクリートになってしまっているが、上京した当時は仰天した。小学校のグランドが道路と同じだったからだ。それに田舎の学校にはブランコとジャングルジムなどの遊具があったのに、都会の学校にはなかった。

 なんてつまらないのだろう!これでは遊べないではないか。でもすぐに気づいた。都会には公園というものがあって、そこにはちゃんとブランコもジャングルジムもあるのだと。そうか、学校は遊ぶところではないらしい、実際私が住んでいた地域にも小さな公園があって、子供たちが歓声を上げて遊んでいた。今でこそ子供は塾や習い事で忙しいらしく、公園はもぬけの殻で、幽霊が出そうなくらいひっそりしている。たまに、大人が、それも老人がひとりでベンチに座っていると、なんだか物悲しい雰囲気が漂っている?だなんて偏見を持ってしまう。どうしても公園を子供が遊ぶ場所としか思えない私が変なのかもしれないが、大人のための場所としての公園は存在するのだろうか。

 お天気のいい日は公園でランチを、とか、森とはいかないまでもほんのひと時だけで森林浴をと言われても、誰も大人は公園には行かない。公園によく行く大人は乳幼児を連れている母親たちで、たまに犬を遊ばせるために大人がやって来ることもあるが周りに迷惑なだけだ。そんな訳で、公園は子供とその母親たちだけのものなのではと私などは錯覚してしまっていた。テレビのニュースなどで見る外国の公園は家族連れやカップルなどの大人たちで賑わっていた。公園は人々がくつろぎ、語り合い、安らげる場所らしい!だが、日本のどこにそんな公園が、例えば、パリのリュクサンブール公園のようなところがあるのか、私にはわからなかった。

 ある日友だちが「ねえ、吉祥寺の井之頭公園に行ってみない」と私を誘った。ちょうど桜の季節だったが、春先の天気は女心のように変わりやすい。春爛漫で桜は満開のはず、でもすでに散り始めていた。その代わりに桜の木々の下は辺り一面桜の花の絨毯が敷かれていた。「ピンクの絨毯、最高だねえ」と二人で有頂天になった。こんな経験はあとにも先にも私の人生においてあの時だけだ。公園と一口に行っても、その言葉が意味するものは全く違う。その点において、井之頭公園は普通の公園と一線を画していた。まずはその広さであり、ボートに乗れる池があって、小さな動物園まであることだ。もちろん子供も遊べるようになっているが、どちらかというと、大人のための公園だ。散歩がてら森林浴をして、日々の疲れを癒すためのくつろげる場所のひとつであることは間違いない。

 「こんなところに住めたらいいねえ」と友だちがため息をついた。事実、吉祥寺は当時の住みたい街の上位にランキングされていた。その理由は駅前に商店街があって買い物に便利だし、大都会でありながら緑に溢れた公園があることだ。コンクリートジャングルに暮らしていると、誰だってホッとしたいと思う。人は自ずと植物を、緑を求めるのだと言われている。だから私たちも気分転換に井之頭公園にやって来て、今の流行り言葉で言うと、”リフレッシュ”なるものをした。そこはただの公園の一角に過ぎないのに、まるで森の中にいるように思われて、しばし現実を忘れさせてくれた。

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