人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

図書館で新刊本を読むことに後ろめたさが

本屋を潰すのは誰か?にドキッ

 NHKのラジオテキストで、フランス語の復習をしていたら、8月号の巻末に貼っておいた新聞記事を見つけた。日頃から、心に残った記事は広告のページに貼る習慣になっている。記事のタイトルは『本をめぐる皆の利益になる議論を』で、私も少し聞いたことがあるが、政府が公立図書館における人気本の購入に制限をかけることに関してのことだった。要するに、皆が本を図書館で借りて読むようになったら、本屋で買わなくななる。そうなれば、作家の利益は減り、言うまでもなく、本屋の存在自体が危うくなると言うわけだ。

 実を言うと、私もつい先ほど新聞の広告で見た新刊本や、芥川賞直木賞受賞作などの話題の本がすぐに図書館で借りられることを知って仰天したひとりだった。私が図書館を利用するようになったのは、ここ一年ぐらいのもので、本音を言うと、とても得をしていると感じている。なぜなら、お金を払わなくても、無料で本が読めるのだから。だが、一方では、本当ならお金を払って読むのが当然なのに、という後ろめたさも感じる。昨今の本屋の閉店も、皆が本を買って読まなくなったと言うよりも、図書館を利用する人が増えたのかとも思うが、本当のところは分からない。

 私自身は、以前はお金のことなど考えず、良さそうと思ったらすぐにレジに持って行って買っていた。よく吟味などしないものだから、当然後からミスマッチが起こる。そうなったところで、洋服のように「私にはどうも合わないようなので・・・」などと言って、返品することなどできやしない。なので、読めそうにない本は古本屋に持って行って引き取ってもらっていた。だんだんとそれも面倒になると、部屋の隅にうずたかく積みあがり、その山を見るのが嫌になる。結果、押し入れに放り込んで、目の前から消していた。

 私は最近本屋に行かなくなった。いや、先日も新聞広告に載っていた本を探しにというより、買う気満々でイソイソと出かけた。だが無情にも、近所の中規模書店にはおいていなかった。そんなに欲しい本なら、散歩がてら、歩いて40分の都心の大型書店に行けばいいのに、そこまでの情熱はもう無い。そこで、怠惰で単細胞の私は、「どうせ、そのうち、図書館で借りられるかもしれないから」と下世話なことを思ったのだ。「本屋に行かなくなった」というのは、気楽に「本屋にでもちょっと行って見ようか」とさえ、全く思わなくなった。それほど気持ちが動かなくなったのは、これは実に憂うべきことで、寂しいことだ。だいたいが昼休みに立ち寄ったとしても、昔のようには人がいなくて閑散としている。皆の関心はもう本には向いていないのかとさえ、錯覚してしまうのだ。

 自分で自分のことを、どうしちゃったのかと、戸惑うばかりだが、読みたい本は必ずある。それらの本はたいてい新刊本で、それを私は狡いことに、図書館で借りて読んでいる。読んではいるが、なんせ400ページにも及ぶ分厚い本なので、2週間の貸出期間ではとても読めない。読めないので、再度借りるのだが、その時は悲しいことにもう気持ちの旬が切れてしまっている。それでも、舞い上がったときの燃えカスは残っているようで、こうなったら、いっそ本屋で買って自分のものにしてしまおうかとさえ思うのだ。

 どうやら、本屋は私にとって魅力的な場所と言える存在ではなくなってしまったが、勝手な言い分だが、やはり無くなると困る。その点において、政府が図書館が人気本を多数購入することに制限をかけるのはやむを得ないとも思う。図書館の予約サイトを見ると、一目瞭然で、新刊本にやたら予約が集中している。数年待ちとわかっていても、それでも予約するのだから驚いてしまう。先日読んだ新聞記事には『本屋を潰すのは誰か』について書かれていた。そこには、また本屋が潰れてしまった、と嘆く前によく胸に手を当てて考えてみて欲しいとの記述があった。果たして、自分はその店で本を買って売り上げに少しでも貢献していただろうか。本屋を潰したくないのなら、日頃からその店を利用し、経営が安定するように支えなければならないのだ。

mikonacolon