人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

さらに「ベンチの足」

今週のお題「読書の秋」

f:id:mikonacolon:20211023192831j:plainピレネー山脈にあるカヴァルニー渓谷。NHKまいにちフランス語テキストから。

男の子がつぶやいた、たしかに・・・

 昨日ブログに書いた佐藤雅彦さんの「ベンチの足」に「たしかに・・・」と言うタイトルのエッセイがあります。佐藤さんはある昼下がりに地下鉄の有楽町線に乗り込みました。午後のまだ明るい時間なので、車内はそんなには混んでいませんでした。乗客たちに目をやると、皆お約束のようにスマホの画面を凝視していました。その中で佐藤さんの目を引いたのは、おそらく小学校の低学年かと思われる小さな男の子でした。彼だけは他の乗客とは違って、ある本を一心不乱に読んでいたのです。彼は佐藤さんが立っている目の前の座席でお店を開いていました。学校で作ったであろう画用紙の工作を横に置いて一人分の座席を占領していたのです。佐藤さんの痛い視線を感じたのか、彼はすぐに自分の荷物をどけました。それで佐藤さんはその男の子の隣に座りました。

 どうやら地下鉄の車内で彼だけは別世界にいて、自分だけの世界に浸っている人のように感じたのでした。この車内で一番濃密で、充実した時間を過ごしているのは他の誰よりも彼に違いない、そう思った瞬間、なんだか自分の横に居る”熱中”が羨ましくなってしまいました。佐藤さん自身は、携帯でメールのチェックをしたり、パソコンを開いたりして、この隙間時間を有効活用することにしました。でも自分のしていることは、やらなければならないことであって、やりたいことではありません。

 要するに、時間の有効利用を常に考えて生活しているのですから、隣にいる”熱中”の熱量にかなうわけないのです。しばらくすると、男の子がページを捲る手を止めて、急にすでに読んだページを遡り始めました。隣に居る佐藤さんは、いったい何が起こったのか、と内心気が気でなりません。すると、”熱中”がひとこと、「たしかに・・・」と呟いたのです。何がたしかになんだ?という疑問が湧いてきたら、もう止められず、本の題名が知りたくて堪りません。”熱中”が読んでいる本の背表紙をなんとか盗み見たら、全部はわかりませんでしたが、「ドリトル先生のなんとか、かんとか」でした。

 「たしかに・・・」がどうしても知りたくて、佐藤さんは図書館に本を探しに行きました。男の子と「たしかに・・・」の想いを共有したかったのですが、どうやらそう簡単にはいかないようでした。なぜなら、ドリトル先生のシリーズは13巻もあったからです。なるほど、そんなにお手軽に「たしかに・・・」が何かわかるわけないかと痛感したのです。でも、考えてみると、大の大人が小さな男の子ごときの何気ない一言に惹きつけられてしまう、そのこと自体が新鮮で、実に面白い事ではありませんか。特に佐藤さんのように、暇を持て余しているのではない、忙しいであろう方がこんな行動に走ってしまう事実が大変興味深いです。

 私たち大人は時間を無駄にするのが大嫌いです。常に何かしていないと落ち着かないくて、それは携帯をいじる事でも、文庫本を読むことでも何でもいいのです。そうやって常に頭に情報を送り込もうとしているわけです。時短とか効率とかが頭の大半を占めているので、何も考えず、ぼうっとしていることに罪悪感すら覚えてしまいます。

 外山滋比古さんの「思考の整理学」を読むと、むしろ何もしていない気持ちが緩んでいる時の方がいいアイデアが浮かぶのだと書いてありました。考えがまとまらない時はいったんそれを脇に置いておいて、忘れるのが一番いいのだそうです。その通り実践してみたら、先生の言われる通りだったので、何もしないでぼうっとする時間を大切にしようと思えてきたのです。

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