人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

食べ歩きの感覚でおにぎりを

 

コンビニの前がイートインスペース?

 昨日久々に都心に出かけたとブログに書いたが、それは予期せぬ発見の連続でもあった。昔よく歩いた通りや、行く度に買い物したドラッグストアを通りすぎたら、時が遡るかの如く懐かしい気持ちでいっぱいになった。とっくに自分の中では忘れていて、過去の遺物となりかかっていたものが今でも目の前に立派に存在していることが不思議でならない。自分がいつの間にか見捨ててしまったのに、それでもその店を必要とする人は五万といたのだ。揺るぎない習慣に思われたものが、一瞬にして断ち切られて、呆然自失、そんな地殻変動のような変化を潜り抜けてここまできた。そのこと自体が考えてみると、今ではとても信じられない。すでに昔馴染んだ感覚は消えていて、もうこの場所に吸い寄せられることはないだろうと言うのが本音だった。

 大通りに出る近道の入口辺りに、ファミリーマートがあって、そこはいつでも人の出入りが激しかった。ふと見ると、店の前に外国人が二人立ち止まって、おにぎりにかぶりついていた。小さなおにぎり、昨今のおにぎりは昔と比べると痩せていて、びっくりするほど小さい。私はこのコンビニの店の前でおにぎりを食べると言う行為に違和感を抱いてしまった。コンビニの前でいきなり、おにぎりを食べるだなんてことは、日本人ならしないだろう。いや、今までそんな光景を見たことがなかっただけのことだ。よく見ると、この二人は中国人でもなく、アジア系でもなく、見るからに欧米系の人たちだった。

 さらに、少し視線をずらすと、そこでは2,3人のこれまた外国人男性たちが、なにか四角い物、そう、コンビニ置いてある骨なしチキンのようなものをパクついていた。私には、日本人なら、チキンに欠かせないのは酎ハイや、ビールなどのアルコール類だとステレオタイプな考えしか浮かばない。だが、その外国人たちはどうやらそう言った習慣はないようで、骨なしチキンしか見当たらなかった。まるでコンビニの前が一時のイートインスペースになってしまったかのようで、まさに”類は友を呼ぶ”という現象が起きていた。どんなことも皆で一緒にやれば怖くないと言わんばかりだった。

 例えば、死ぬほどお腹が空いていて、喉から手が出るほど食べたくても、店を出てすぐその場でおにぎりを食べられるだろうか。日本人なら、人目を気にして、食べた気さえしないだろうから、そんなことは絶対しないだろう。少なくとも、私なら。それに、探せばどこかしらに座って、落ち着いて買ったものを食べられるスペースがあることを知っているから余計にそんな危険は冒さない。だいたいが人の視線が痛すぎる。

 考えてみると、外国人は座って自由に食べられるスペースがあること知らないのだ。地元の事情に詳しくないからか、あるいはそんなミニ情報を得られる手段がないので、仕方なく店の前で食べているのだろう。そうだ、いわゆる食べ歩きの感覚でもって、買ったものをその場で食べているのだ。例えば、京都の清水寺に至るストリートを歩きながら、その場で買ったものを食べる行為と同じだ。そこでは誰もが皆同じ事をしているので、人の視線などお構いなく、いやそんなことを気にしないで安心して食べ歩きができる。

 昨今はコンビニのおにぎりが小さくなったと嘆いてみたら、昨年行ったヨーロッパ旅行で遭遇した驚きの発見を思い出した。パリのモンバルナス駅の売店で、初めておにぎりが3種類並んでいるのを見たときは正直言って感激した。ついに日本のおにぎりも国際的になったものだと嬉しくなったが、はて、売れ行きの方はというと、まだだいぶ残っていて芳しくない。味はプラム、たぶん梅干しか、それからサーモン、あと一つは確認できなくて謎のままだ。立ち去れないまま、おにぎりを見つめていたら、そこへお客さんが現れた。何処の国の人かは定かではないが、見るからにアジア系でご飯をこよなく愛している方たちだろう。彼らカップルのうちの女性の方が躊躇なく3種類のおにぎりをかごに入れて、レジに持って行った。おにぎり一個、3.5ユーロだから、合計10.5ユーロで、日本円にすると、1600円ほどだろうか。おにぎり3個でこの値段は高いと思うかもしれない。でもこれはサンドイッチ一個と同じくらいの値段なので、現地では安い部類に入るのだ。いやはや、頭のスイッチの切り替えが難しい。

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