人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

隣に住む美しい人

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 アパートで出会ったその人は謎に包まれていて

 私がその女性に出会ったのは、アパートに引っ越してきて間もない頃でした。それまでは一人暮らしだったのですが、デザイン事務所に勤めていた友達と一緒に住むことにしました。疲れて帰ったらすぐにシャワーを浴びられるようにと風呂付きの部屋を借りたのです。荷物を運び終わった私たちは、早速菓子の包みを持ってご近所に挨拶に行きました。まず隣の部屋からと、玄関のチャイムを押すと、現れたのは30代後半と思われる美しい人でした。知的な雰囲気をもつその女性は、まるで映画やドラマに出て来る女優さんのようでした。

 その後、近くの商店街に買い物に行って、八百屋で何を買おうか迷っていたら、なんとその人に偶然出会ってしまったのです。あちらも私たちのことを覚えていたみたいで思わず口元から笑みがこぼれました。もちろん、その時はあいさつ程度で終わりです。でも、小さな偶然が続くと、自然と親しみが生まれて、なんだか以前からの知り合いのように思えてきて気を許してしまうものなのです。私たちも同様で、休みの日にちょくちょく出会うようになって親しくなっていきました。

 私たちは二人とも平日は仕事が忙しいので、休みの日ぐらいは朝寝坊をしてグタグタしたいと思っていました。でもあの日友達が気分転換をしようと近所にあるカフェに行こうと誘ったのです。休日なのになぜ朝早く起きなければならないのかと文句を言いながら、嫌々ついて行きました。ちょうど桜の季節で、目の前には公園があるのでカフェのテラスからお花見ができるのです。店に入って、お目当てのテラスの席に座ろうとしたら、偶然近くの席にあの人がいることに気がつきました。声をかけようかと迷いましたが、ひとりを楽しんでいるようなのでお邪魔かと思ってやめました。できるだけあの人から視線をそらして、私たちは自分たちの会話に集中することにしたのです。

 そうしていたら、近くで「あら、あなたたちも来ていたの?」と爽やかな声が聞こえました。「よかったら、一緒に話をしない?」と言われたのがきっかけで毎週のように美しい人と朝食を共にすることになりました。最初のうち、その人はほとんど自分の事を話しませんでした。大抵は会社の人間関係に悩んでいる私の話や、デザイン事務所でのやってもやっても残業が付かない虚しい毎日を面白おかしくしゃべる友達の話に耳を傾けていたのでした。それに私たちは根掘り葉掘り尋ねるようなことはしませんでした。でも、ある日突然、自分の事について語り始めたので、私たちはその内容に衝撃を受けてしまったのです。

 その人の話によると、彼女の職業は世間でいう水商売と言われるもので、キャバレーのホステスをしていました。キャバレーと言われてもどんなところか想像もつかないので興味津々です。ドラマによく出て来るような高級クラブしか思い浮かびませんが、どうやら、そんなに敷居が高い所ではないようでした。誰でも気軽に遊びに来られる場所、それがキャバレーというところの良い点なのだそうです。その店はビルの地下にあって広いスペースにたくさんのテーブルがあり、大勢のホステスさんがいて連日繁盛していました。彼女も自分のお客さんを持っていて、それなりに自分の仕事にプライドがありました。どんな人が気分転換に遊びに来るのか、聞いてみると会社の社長からサラリーマンまで多種多様です。彼らとたわいもないおしゃべりを楽しんだり、ダンスを踊ったりして、自分の指名客のテーブルを渡り歩く、だから毎日忙しいのだと彼女は笑うのです。

 ドラマのように水商売の人は夕方美容院に行くものだと思っていたら、彼女は違いました。家で自分で髪をアップにしてしまうのだと聞いて仰天しました。あの美容院で髪をセットするときに使うお釜を持っているので、自分でできるのだとか、なんと器用なことかと驚かされました。「楽しいわよ、毎日今日はどんな感じにしようかと鏡の前で考えるの」と涼しい顔で言ってのけるのです。そんな彼女を見ていたら、まるでいたずらっ子のように新鮮に感じてしまいました。それから、仕事ではパーティーで着るような丈が長いドレスを着るのですが、それもクリーニングには出さないで自分で洗うのです。その理由はお店の人に自分が水商売だと知られて、色眼鏡で見られたくないからでした。彼女の故郷は秋田で、時々親類が訪ねて来ることがあります。身内には知られたくないのに、そんなときはどうするのか。さぞかし困るのではと思ったら、押し入れにズラリと掛けてあるドレスをカーテンで隠すようにしてあるので問題ないのだそうです。

 今では記憶の彼方にあって、あれからどうなったのかもう覚えていません。でも美しい人の面影だけは今も頭の片隅に住み着いて離れないのです。

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