人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

夜のお楽しみが消えた今

お題「#この1年の変化

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 気がついたら、夜のスイーツを食べなくなった

 コロナウイルスによる感染症が流行るようになって以来、私は早起きをするようになりました。すると自然に9時頃には眠くなってしまうので、もう少し起きていたいのはやまやまなのですが、10時には布団に入ることになります。その眠くなったときに、歯磨きをするのが実に面倒で嫌な気分になるのです。同じことをやるのにも、いつそれをするかでその時の気持ちに天と地ほどの隔たりがあります。嫌な思いをしたくなければどうしたらいいのか、考えてみたら簡単なことでした。つまり、早めに入浴し、その後にセットで歯磨きをすぐにやってしまうことにしたのです。そしたら、いつの間にか入浴が「本日は終了しました」のような飲食は終わりの合図になりました。最初は戸惑っていた脳も次第にOKを出すようになりました。すんなりとその変化を受け入れた結果、何よりも楽しみだった夜のスイーツの時間が私の生活から消えたのです。信じられないことに、食べ物の楽しみよりもめんどくさくない快適さの方が勝ったのです。どうやら、できる限り嫌な思いをするのを避けることで、心の平安を保とうとしているようなのです。

 思えば、コロナ前は食いしん坊のせいか夜寝る直前まで何かを食べていた気がします。自分で満足できるまで食べていたようで、いかに食べ物にすがって生きていたことか!特に夜の静けさの中、落ち着いた気分で甘いものを食べるのは至福の時でした。でもコロナが流行って以来、あんなに好きだった食べ物でさえ、目に見えない不安を払拭してはくれませんでした。それどころか、ケーキのとろけるような生クリームはタダの粘っこい脂に、プリンの滑らかさは甘いだけの豆腐のようにしか感じられなくなったのです。いつの間にか、甘いスイーツは悲しいことに自分にとって魅力的な食べ物だとは思えなくなりました。というよりも、心に空いた穴は食べ物では到底ふさがらないのだと気付いたのです。ありえないことです、形あるものではなく、目には見えないけれど、確かにある何かを求めるようになったのですから。それは言葉ではうまく表現できませんが、充実感だとか、達成感などという、そんな立派なものでなくていいのです。生活の中のささやかな発見でいいのです。例えば、散歩をしていて、偶然タンポポが一輪咲いているのを発見した時の嬉しい気持ちとか、人間の思惑など関係なく巡って来る春を感じ、自然の不思議さを想って「すごいなあ」と感心したり、そんなことでいいのです。

コロナの後遺症による嗅覚・味覚障害は恐ろしい

 今までの私は食べ物でストレスを発散をしてきたし、それはとても有効な手段だったはずです。でも、もうその方法は通用しなくなったのです、好きな食べ物が美味しいと感じられなくなったのですから。食べ物が美味しくないと言うと、コロナに罹って、治癒したのにも関わらず、未だに嗅覚や味覚障害に悩まされている人達のことが思い浮かびました。ある日の朝日新聞天声人語に衝撃的な事実が載っていました。記事の担当者の友人であるイタリア人の女性は回復から8カ月たっても嗅覚、味覚障害が続いている。目を閉じて食べると、ピザかパスタかパンかわからないとか。うそぉ!そんなことが現実にあり得るのと驚きがとまらなくなる。さらに、コーヒーはガソリン、肉は金属のような味がする。排泄物はいい香りがし、水道水は臭くてシャワーを浴びるのが嫌になるほどだという。ここまでくると、最初の驚きは恐怖に変ってしまった。ガソリンの味とはどんなだろうと想像してみると、運悪く車の排気ガスを吸ってしまった時のことが頭に浮かんできた。息ができなくなるほどの不快感が蘇ってきた。金属の味とは、きっと口に入れた塊は人間の食べる物とは思われないほど、無機質で硬く感じられたのだろう。そんな自分が悲しくなって涙さえ流してしまうのではないのか。おそらく食べ続ける気にはならず、吐き出してしまうのが落ちなのだ。そして、極めつけは水道水、水がまるで下水のような匂いがするのを想像してみるだけで、ゾッとして耐え切れない。

 正直言って、このことを知るまでは嗅覚・味覚障害ぐらい、大したことないと思っていた。でも目から鱗で一瞬にして快適な生活が地獄になってしまうのだとわかって、もの凄い衝撃を受けたのです。さらに悲しい事には、その苦しみは他人にはわかってもらえないだろうし、当事者にならないと実感できないのがなんとも耐え難い事実なのです。

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